八味姉妹の部屋

文芸ユニット。只今、エッセイの勉強中です。

「絵」高柳 龍 著

◇ 絵 ◇    「 秘密基地にありしもの 」        

 “なあに水面まで高が50㎝もない滝壺だったのか。これを滝壺と呼んでいいのか、別称が浮かばないのが面映ゆかったが、無性に懐かしかった。あれから10年以上も経って姿を留めているとは”

 もう40年以上も前、つまり大学時代にひょんなことから足を伸ばして幼い頃の遊び場を訪れた際の感懐だった。灌漑水ともなっている川がやがて耕地を離れ細いせせらぎと化し、のんびり原っぱを通って段差のある個所に小さな滝を作っていた。その後直ぐに右に曲がって大きな川に注ぎ込んでいた。当時はさすがに近くまで住宅地が迫っていたところもあったが、川に沿う佇まいにさほどの変化のないのが嬉しくもありもの哀しくもあった。

 

 そこは小学校の1年から3年まで、友だちとしょっちゅう遊んだ秘密基地だったのである。小滝が作る淵さえ深さ30㎝にも満たぬものでそこから流れる小川は深さ20㎝位だったか。

 塩辛蜻蛉や揚羽蝶やらの昆虫に加え、水中生物の捕獲場所でもあったが、それより素足になっての水遊びに興じる所であり、程よい時間で草地に寝転べば格好の休憩場の所ともなった。自分たちだけの秘密基地だったのである。

  そこに最初連れて来てくれたのは小学校に入学して最初の担任のM先生だった。30代ということだったが頭頂が既につるつるで小太りの笑顔の似合う人だった。教室にはメダカや泥鰌、鯰の水槽が置かれ、入学して間もなく餌をあげたり水槽を洗ったりする当番が告げられ、特に鯰には手を焼いたものだった。

 

 生き物が好きだった私を見抜いたのか、夏になってM先生が水棲生物を捕りに行きたくないかと聞いて来た。即、返事をすると「じゃあ、お母さんのお許しを貰いに行くね」と言われて、その日の夕方私の家を訪ねて来た時は、まさかと思っていただけに玄関で応対する母のお尻に隠れていた。

 

 待ち遠しかった。約束の土曜日の来るのが何日間にも感じた。

 当日、言われた通り麦藁帽子と長靴で待っていた僕の前に。同じいで立ちの先生がいた。後ろに駐めた自転車の前の荷台に籐の籠を取り付け、その中にバケツが入っているのを見た。母に挨拶するや後ろに乗れと言う。母も嬉しそうに目を細めていた。先生のお腹に手を回すようにして跨った私は、照れ臭かったけれど大声で行ってきまーすと叫んだ。水田地から森林を抜け到着した所は広大な原っぱだった。勿論その間の道は砂利も含め地面だった。昭和30年代半ばのことで1台の自動車にも擦れ違わなかった。

 その日の楽しかったことははち切れんばかりのもので却ってよく思い出せない。ゲンゴロウタガメ、ヤゴを捉えては生態を教えて貰ったり、長靴の先で川底をグイグイ推し進めて泥の渦巻きから飛び出てくる泥鰌をたも網で救ったりもした。大きな鯰を捕らえるのに先生が尻もちを付き、刹那吃驚した私だったが、先生自身が大笑いするものだから私も腹の捩れるほど笑った。その後二人して滝の横の土手の草原に素足になって寝転んだ。草のベッドはふっくら温かく草いきれがいい匂いだった。太陽光が二人を容赦なく照らし眩しさに閉じた瞼裏も赤く透けていた。

 

 2回目は夏の終わり、私の方からねだるのを制していたせいかも知れない。今度は皆自転車の補助輪が外れていたので友だちのI君とK君も一緒に行っていいかと尋ねた。M先生はちょっと考えて、いいよと言ってからじゃあ4人だけの秘密の場所にしようと言った。何だかドキドキ、ワクワクした。  それから2、3度行き秋となったある日、3人の中で一番積極的なK君がうるさいので意を決して放課後「秘密の滝壺」に行こうと先生に願い出た。その時も先生は少し考えて次のように言った。

 

「先生、今忙しくて一緒に行けないんだ。だから3人一緒なら行ってもいいよ。……但し、掟を守ってくれなければダメだ。守れるかい?」

 勿論、「ハイ」と言った直ぐからK君が掟って何?と聞いた。

「1 絶対に滝壺に飛び込まないこと。 2 滝壺から右へ曲がっていくところからは遠くに行かないこと。 3 みんなで掟を守っているかどうかを互いに見てあげること。……この3つ、だいじょぶ、守れる?」

 

  3人は互いに見つめ合いながらハイと言った。

 

 それから何度遊びに行ったろう。M先生が突然見に来ることもあった。「掟」という言葉は「約束」という響きより強く、絶対だった。結束は嫌が応にも強まったと思う。

 2、3年もなぜか同クラスだったI君とはずうっと仲良しだった。2年から他クラスになったK君は次第に滝壺の仲間から遠ざかったので、その替わりにS君、W君を加えていいかとM先生にお伺いを立てた。そのグループが3年まで持ったのも不思議であればし、別の人が滝壺に来なかったのも信じられなかった。楽しくて堪らぬ自分たちとしては。

 その仲間と別れることになったのは夏休み中に父の転勤で私が引っ越したからである。それからずうっと彼らにも会っていないし、滝壺を訪れたことも無かった。

 けれども、この思い出が形となって残っている物が今も実家の納戸にある。3年生の時、夏休みの宿題で描いた水彩画である。題して「昆虫採集」、四つ切りの紙にI君と私をド・アップにして描いた。捕虫網を草の上から被せてその隙間から殿様バッタを摘まみ出す私を、I君が自分のことのように嬉しい表情で膝をぶつけるようにしゃがむ景である。バックには秘密基地である滝壺と原っぱで飛び跳ねるS君、W君を小さく描き入れた。この絵で市のコンクールで最優秀賞を貰った。

 

 付け加えることがある。この絵はほとんど家で思い出しながら興に乗って描いたもので、完成間近の興奮におやつを取りに立ち上がった時だ、座卓いっぱいに広げていた画用紙の端に膝小僧が当たり、その衝撃が隅に置いてあった水入れを倒し、あろうことか画用紙一面に流れ広がったのだ。慌てて布切れでポンポン叩くようにしたが却って別な色が付き、今度は慌てて新聞紙を数枚束ねたもので覆った。涙が出そうになった。動揺を抑え悔しさを押し殺して、それまでとほぼ同じ時間を掛けて修復を試みたが、全体がぼうっとした印象になってしまった。諦めるよりない、しょうがなく提出した作品だったのだが。

  大学生活に何があったわけでもないが、ふっと訪ねたくなり行ってみれば可愛い自分の幼心を思い出した。人間として大切な純粋さを取り戻せたような気がして悪くないと思えた一日となった。美味しい夕食にありつけた。

 因みにM先生とは40年間、先生が亡くなるまで年賀状だけのお付き合いをした。あまりに照れ臭くて会いに行けなかった。亡くなられた時、先生が編まれた「T市 野の花の手帳」というミニ図鑑を奥様が送ってくださった。


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「絵」蒼月 光 著

平日の昼間。
霧雨の注ぐ音が聞こえそうなほど静まり返った美術館で、絵画を観ていた。

森林展とされただけあって、木や林や森が額縁一杯に描かれた絵ばかりが展示された館内。コンクリートの壁、徹底した温度湿度の調整。人工物で囲まれた部屋にいるはずなのに、いつしか本当に森林浴をしている心持ちになっていた。

 

靴音響かせる度、印象派よりの筆先が描いた重なる葉から零れる光が揺らいで。

大きな木を見上げて立ち止まっては、木部樹液が流れる音が聞こえないかと耳を澄まして。いつのまにか森林浴をした時のように呼吸が深くなっている自分に気が付く。

自分の足音を忘れていく内に、絵画たちに取り込まれたようだ。

 

 

私は巧く絵を描くことができない。

よくフリーハンドで真円を描ける人は絵が巧いというが、まさに、私は円が描けない部類に入る。ぐーるん、と円を描くと何処かしらが歪になってしまうから仕方ない。

けれど、絵画を観るのはなんとも好きだ。芸術の森美術館や近代美術館、それにたまたま行ったフリースペースで展示をしていたら思わず入ってしまうほどには。

 

学生時代は、宗教画や人物画によく目を奪われた。
現代であったら素人でも簡単に画像加工ができるが、まだ写真すら時代、神や天使や悪魔等の目に見えない存在を具現化し、宗教の教えを絵で伝えるという手法は一体どれほどの効果があったのだろう。

ルネッサンス期から時代がおりて、絵画が庶民のものとなった時に登場してくる名もなき市井の人達の日常の姿がモデルの絵となっても「サマ」になっているのは何故だろう。

 

額縁の前に立っては、カタチをしたモノ達へ語り掛けるように視線を合わせる。

何かを答えてくれるわけもないが、背景や隅に転がっているだけにみえる小物たちが言葉の代わりに何かを教えてくれようとする。

埃が射し込む光に照らされて煌めくように、価値があるものと認められ後世にまで残る絵画は時代を易々と越えて、文字ではない表現で多くを伝えてくる。

解説を読んで答え合わせをするのも良いが、何が正解か分からないものがあるのも、また、良い。

 

ただ一つだけ言えるのは、絵描きは無駄な物はキャンパスに入れることはないということ。この当たり前のことに自分で気付くまで、割と時間が掛かってしまったのは、やはり自分には絵の才能はないということなのだろう。

 

そんな私にも小学生の時、写生会があった。

学校敷地内の木や近所の土手からの景色…学年ごとに色々な場所に行ったのを覚えている。その中でも特に円山動物園に行った記憶が特に鮮明に残っている。

はてさて皆で並んで遠足のように行ったのか…その道程は忘れてしまったが、普段家族でお弁当を持って行く時とは違った緊張感で、動物たちと向き合っていたのは覚えている。

 

当時の動物園は旭山動物園のように動物が活発に動く様子が見られる展示方法ではなく、檻の中、ただ気怠い日差しを浴びて寝そべるか、御飯をモグモグ食べている動物たちばかりがそこに居た。

同級生達が描く対象としての人気動物は、象にキリンにライオン…といったあたりだったか。けれど、どうにも私には寝ぼけたようにいる彼らの姿を描く気持ちが湧かなかった。動かない彼らは格好のモデルでは有ったのだが、すでに座り込み、描く体勢に入った大勢の同級生達の様子や、その向かいにいる無造作スタイルの彼らを観ると、どうしても筆を進ませることができなかったのだ。

 

大きな画板を持って順番に動物たちの退屈そうな欠伸を観ながら歩き、檻の並びが終わった所で、ようやく描きたいと思える存在に出会えた。

 

人工池の中で、ピンク色の羽毛をワサワサと動かしながら群れる、フラミンゴだ。

 

緑が深い季節に自然界の中では派手な衣装を身にまとう片足立ちの彼らは、鳥類独特の無表情さで時が流れるままを過ごしていた。

その様子を観た私は、凝る濃い水の匂いに鼻をスンとした後、芝生の上に座り、肩に掛けていた画板を首から下げて用紙をセットした。

 

嘴の先を黒く染めた後は淡桃色の曲線をあまり動かしもせず、片足で立ち止まり続ける彼らは、被写体としては描きやすかった。

いよいよ私は不器用に鉛筆を持つ。

周りの音が無音になって、対象の君と一対一。

大きく輪郭を描いてから、羽の先に視線を移し、なるべく同じになるように白い紙に切り張っていく。なるべく水晶体で吸い取った風景のままを。

 

結局、ポンと肩を叩かれて、お昼だよーと友人が教えてくれるまでピンと張った糸で、彼らと繋がっていた。もう少しで感情が交差するかと思えるほどに。

確か、その日は大雑把な景色の描写だけで一日が終わって、後日、学校で絵の具を使い彩を染めていったと記憶している。

 

緑に覆われた中、波紋の浮かぶ水色の池でピンク色の鳥たちが佇む姿。

描いた絵を観ては、綺麗なピンクのフラミンゴだねー!と言ってくれる人と、なんでフラミンゴにしたの?と疑問も投げかけてくる人が五分五分くらいの割合だった。

後者の人には、なんとなく、としか言えなかったが、絵が巧くない私なりに、それなりの世界が描けたのではないかと自己満足出来た絵だったように覚えている。

 

円山動物園も様々な施設が新設されたりして、私が子供の頃とは大分、様変わりをしていると聞く。今度、天気の良い日に散歩がてら出かけたいと思う。

便利すぎるスマホを握りしめて、あの時観た風景と同じかどうかを確かめに。

 

 

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「絵」御理伊武 著

 小学校の体育館にカーテンのように飾られる絵画コンクール入賞者と学年毎に優秀として大勢の中から選抜された絵は、飾られる子供にとっては勲章なのだと思った。私も絵が得意な友達の名前を見つけては、すごいねと賞賛した。

 

 そんな私の絵も飾られたことがある。

小学校3年生の春先の桜が咲きほこる団地を描いた絵。神経質で少しでも違うことに敏感な私は立木が並ぶ光景や建物の色、団地の番号を間違えないように忠実に描いたつもりだったが、白い紙に先生からのコメントで、木の枝の先が太いのが残念と書かれていた。

 確かに、渾身で書いた絵の木の枝は、先に向かうにつれて太くなっていた。

 か弱い幼心はそこから自信喪失である。

 私は、絵は苦手なものとして、あえて触れない、授業以外では描くことのないものになった。

 

 幼い頃から、絵画は、自宅の古い官舎のコンクリートの壁を飾っていた。友達の家でも小さなピースのジグソーパズルが完成した絵を何枚も額縁に入れて飾っていたり、階段の踊り場に油絵が飾られていたり。各々の家庭で絵は身近なものとして存在していたのだろうと思う。

私が小学生だった昭和の終わり頃、当時、購読していた読売新聞は、有名な絵画のA3位の大きさのポスターを毎週か毎月か覚えてないのだが、届けてくれた。

 

 母は気に入ったものは額縁を買って飾っていた。それに新聞社の特製の深紅色の重厚なファイルもあったので、次々に名画が収集されていた。それから何度か引っ越しをしたのだが、その度に、私は持って行く物として埃をほろい段ボールの中にしまった。

 

 母は、絵が好きで自分で水性画を描いたりもしていたが、私はもう自ら新しい画用紙に向かって書く気もせず、母が描く姿を横目で見つつ、学校の課題だけを息も絶え絶えなほどに何とかこなしていた。私の画材が余ると母は上手く活用して絵を書いて、額縁に入れて家の中に飾っていた。

 

 そして絵が好きな母に誘われて、芸術の森や近代美術館に出かけた。

 全ては、私にも絵が好きになって欲しいという思いもあったのだろうと思う。

 そのほとんどが古い記憶過ぎて忘れているのだけれど。

 その中でも後藤純男氏の絵をじっくりと見たことは覚えているのだ。

 壁一面を使った雪の世界。

 木々に積もる雪と、温かく差し込む薄い日差し、その下には深い渓谷。

 渋い日本画を私は、おそらくいつもと変わらぬ顔で、見ていたのだろうと思う。

 中学生くらいの子供の心の感覚なのだろうと思う。

 すごいとか、素敵だとか、大げさに口にしたり表に表すことは親の前では必要ないと思った。だから感動が薄いとか、優しくないとか言われるのだけれど。

 

 それでも、ずっと見ていたいと思った。景色を描いた絵なのだが、枝の先まで一つ一つ心に止めておかないといけないと思ったのだ。

 絵画はそこでしか出会うことが出来ず、もう二度と会うことがないような気持ちになる。再び出会っていないので、私の判断は正解なのだと思う。今でもぼんやりと目の前のスクリーンに浮かぶ。静寂の中で一筆一筆がそれぞれに意志を持った絵に触れた良い思い出として。

 

 ふと絵筆を持ってみようかと思ったときがある。どんな絵でも額縁に入れば誰かに訴えるような、何かになるような、過ぎた思いで。

 

 丸を三つほどよく置くと、ミッキーマウスの顔のように見える。アトラクションの壁の一部や、売店の飾りや、テーマパークに目立たぬように飾られたそのモチーフを探し見つけ出すことがディズニーランドの常連らしく思われ、SNS映えするらしい。試しにおにぎりを丸く握って並べてみるとそれらしく見える。

 

 しかし、丸を離して並べると人の顔のように認識されて心霊現象ではないかと恐れられたりもする。祖父母の家に泊まりに行ったら部屋の天井の木の染みが人の顔のように思えて、恐ろしく思い、電気が消されたら布団を頭までかぶって眠っていた。

 

子供に人気のアンパンマンも大きな丸の中に頬と鼻を頬の丸を三つ、後は目と眉毛と口を書けば完成する。誰にでも描くこと出来てそれらしく見える。児童館に行けば書き手の職員さんによってほんのミリ単位で違ういろんなアンパンマンに出会えて楽しい。絵が苦手な私も、アンパンマンだけは、「何これ?」とは言われない。

 

 スマートフォンの絵文字の顔も丸くその中の線の傾きで感情を表している。

 私はたまにその丸に線を入れた具合の下手な絵を、メモ用紙の下に書いて一人で楽しんでいる。たまにキャラクターに挑戦して「ぐでたま」というキャクターに似せれば変なタラコみたいになるし、あやふやなままドラえもんを書いたらオバQとの良いとこ取りの何物か分からぬ新しい生物になった。

 

それでも下手は下手なりに良いなあと私は思うのだ。少なくとも人を悲しませるようなことはないだろう。

 

 大学の講義の芸術論で、静物画の中テーブルに置かれた果物一つ一つに意味があると教わった。色鮮やかな林檎は身近な果物で、愛を象徴するという説の一方で、読み取り方によっては誰かを殺してしまうほどの毒を含んでいるかもしれない。

 

 深読みしすぎる私は今は歯医者の椅子の正面に飾られた絵が恐ろしい。

 

 カモメが飛ぶ青い空、穏やかな海、そしてヨットみたいな簡易的な船を描いた絵なのだが。人はいるのだが動きがない。風がなく空気がとまっているような感じがするのだ。

 

 椅子が倒れてからも怖いのに、私はその全体的な空と海の青さに不自然さを覚えて身震いする。

「背中、倒しますよ」優しい声がして、背もたれが倒れる。見上げる天上にも、水色の中にプカプカと雲が浮かぶ空が描かれている。

 

 子供部屋の天上が空のクロスだったら良いなと思ったのは中学生くらいのころか。双方の人工的な不気味さに、私は瞼を瞑る。目を開けてくださいとは言われないので、閉じていることにする。

 

 

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「雨」高柳 龍 著

「雨に濡れるこころ」                                             

 

 小降りの雨が陽射しに映える。さすがに濡れるだろうからと愛用の大傘を先程から差している。

 昨夜はゼミの仲間と浴びるほど飲んだ。元々酒精に弱く途中で正気は吹っ飛んだ。依然、酔いが頭に渦巻いている。日曜日だが偶には独りのんびりと好きな本を眺めて過ごすのもいいかと考えた。県立図書館までは40分ほど歩けばいい。財布を腰ポケットに入れ、傘だけを手にアパートを出たのだ。

 雨が次第に大粒となり遠景を霞ませた。おふくろの送ってくれた大傘は雨粒を弾く音が小気味よい。住宅街の舗装路にも水溜まりが出来て跨いだり飛び越えたりした。

 

 戻ろうかとも考えた。だが帰っても何にもする気は起こるまい。勉強は愚か、友人を訪ねて遊ぶことすら魅力を感じない。疲れているのかと自問してみた。いいやと気怠く自答した。

驟雨と言うのか。家を出た時は眩しいほどの陽射しだった。普段は信の無い予報を気にしてやって、注文通りぱらついたのだからにんまりした。が、曇り空の上にはきっと晴れ間があると信じている。

 

 最近、何となく不調だった。萎えている感じを容易に払拭できない。前夜の酔態もその延長でしかなかったと悔いる。前期の試験が終わって気が脱けたと簡単に結論付けるわけには行かぬと思った。

 本降りとなった。遠景どころじゃない、近景も雨脚の激しさに白っぽい。

 雨音のシャワーを傘で受け止める。ひときわ大きな音を後ろに捉え、振り向いた時には車が迫っていた。チッ、たくさんの水溜まりに覆われた道だが、それでも除けてやらねばならぬことが面白くなかった。右側に水溜まりを超えて退いた。通り過ぎざま窓が開く。何だ? この雨の中で窓を開けるなんて尋常じゃない。思わず睨んだかも知れない。

「乗りませんかぁ」

 何なんだ? 意外な近さで若い男が声をかけて来た。思わず傘をそちらに向けたら大水が流れ出し、慌てて後方に上げた。期せずして傘が車との間に空間を築いた。銀鼠のライトバンを徐行させながら相手は顔を覗かせて言った。

「乗りませんかーッ。送りますよぉ」

「送るったって、僕の行き先も知らないのに……」

「この雨ですもの、お気遣い無く。私も日曜で暇ですからぁ」

 あまりの胡散臭さに一刻も早く逃れるべきと身を引いた。が、絡みつくズボンの裾を蹴るように足を速めた僕に、車はぴったり寄り添って来るのだ。

「実は…ちょっといい話もあるんですよ。それで……」

 来た来た、これだ。こんな誘いに乗って馬鹿を見る人間が実に多いのだ。

 雨脚が更に激しくなった。大傘でも下半身は既にずぶ濡れだった。道のりの半分も来ていない、……とても図書館に行くどころじゃないと思った。

 そんなことを考えている間も男は親切そうな声を発し続けた。

「とにかく乗って下さいよ。ズブ濡れじゃないですか」

 悪人には見えない。日曜というのに紺スーツを着ている。話だけ聞いてやるか、うまく行けばアパ-トまで送って貰えるかも。小狡い考えが頭を過ぎった。

 途端、その瞬時の変容をプロは見遁す筈はなかった。

「どうぞ。早く、早く。乗ってくれなくちゃ話もできませんから」

 と片手を延ばして器用に後部ドアを開けてくれた。シートが濡れてしまうのに恐縮した。

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 短篇の書き出しとして書いてみた。雨は人を閉じ込める。いかな大きな傘であれ、大降りとなれば全てが濡れそぼつ。それを喜べるのは幼い頃だけである。でも必ず叱られた。大人は直ぐにも家に帰りたくなるものだ。ましてや「僕」はこの時、精神的にも曇天や雨天であったのだから、もう最悪である。心が脆くなるのを誰が抑えられよう。後の筋はこうなる予定だ。

 

「僕」はかくして魔の手に捉えられる。停車したまま後ろに向きを変えて、青山のブティックに勤めていると名告った男は、開口一番「僕」の服サイズを言い当てる。「そう思いながら少し前から見ていたんです。……痩せて背の高い人は腕の長さから言っても吊しではまず合う物はないでしょ」と。図星だった。大きめの傘を送ってくれた母親も服を購入する際はついぼやいてしまうのだった。

「実はセール販売で出張していたんですけど、大きめの物って意外に売れ残りが出るんですよね」

 男は心持ち「僕」の方に近づき、釣られて「僕」も腰を前に動かしてしまう。

「ここだけの話です。君のサイズのブレザーがそこに5着あるんですよ。みんな違う柄だし安く買って頂けないかと。月末に残してしまうより、安くしてでもはける方が私には嬉しいんです。○○という英国ブランド、知ってるでしょ。ちょっと段ボール箱を開けて裏地のタグを見てください」

 言われる儘に「僕」は確かめる。それらしい刺繍が見て取れた。雨に降り込められた密室のムードは既に公明正大さを失していた。直ちに箱を閉じたのは既に罪意識の共有が成立していたからだろう。「気に入らぬ柄があっても全部で5万円ならどうです? お母さん孝行にもなるんじゃないですか?私も勤務評定でポイントを稼げるし、君を送ってあげてもまだ夕方のデートに間に合うし……、久し振りの日曜なもんですから」

 もう「僕」は雁字搦めになっている。話の合間合間に心擽るような話題を男は忘れない、「僕」の故郷を聞き、そこは修学旅行で訪れて感激したことを伝える、それも具体例を挙げて。好みの音楽ジャンルを聞き、歌手名も聞いた上で、自分も好きなこと、この曲あの歌の良さを事細かく論じる。勿論「僕」の言うことに耳を傾け賛同するのも実に巧みだった。

 結果、「僕」はアパートに送って貰い、中身を確認する間もなく箱を抱えて雨中に飛び出し外階段を上がる。机奥の仕送り金に腰の財布の数千円を補ってそそくさと車に戻る。心の置けぬ共謀者との意識が、それに相応する土砂降りの雨を背景に、窓から手を振ってエンジンを吹かし去る車に向けて、「僕」は手を振って見送ってしまうのだった。

 さて、心時めかせて箱を開ければ、上のブレザー以外は粗末な製品ばかりで、しかも全てがつんつるてん。以来、雨が降ると自分が情けなくなる「僕」である、という構想を得たが、どうだろう、雨をこんなふうに扱うのは。昨日(8月31日)も昼時大雨が短時間降った。その前後がもろ残暑の天気だっただけに吃驚したが、恰度その時、庭作業をしていて数十年ぶりにしこたま濡れた。この世のあらゆるものが辛く当たる、そんな年齢になったのだと熟々思った。

 

 

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「雨」蒼月 光 著

自分は晴れ女だと思っていた。
学生時代の遠足や学校祭、家族旅行等の想い出は大抵晴れの日と共にあるから。

それは傘やカッパを着た写真が見当たらないことからも明らかだ。

けれどいつからだろう。

非日常を強調するような猛烈な雨と共に思い出が作られるようになってきたのは。

 

最初は高校時代の友人達(御理伊武含む)と富良野に行った時のこと。

たしか札幌駅からの観光列車に乗って、北の国からのBGM流れる車内ではしゃぎながら、畑の真ん前に期間限定で作られる駅に向かった時のことだ。

見渡す斜面一面に広がるラベンター畑。リラックス効果のある薫りを堪能しながら、青空にふわゆら浮かぶメロンの形をしたバルーンを観たのを確かに覚えている。

 

それがいつからかどんどん雲が多くなってきて。お気楽にものんびりと他の観光先へと徒歩移動をしている時に、突然やってきた天を裂くような稲光と轟音

 

悲鳴を上げる間もなく、土砂降りの雨に降られ、ようやく見つけた民家に飛び込み、タクシーを呼んでもらった鮮烈な記憶。今、千原Jrさんが不定期でやっているタクシーでの旅番組をかなり昔に先取りでやっていたことになる。

 

あの時の田舎特有の引き戸玄関の民家の方が、優しくて有難く。素早くタクシーを呼んでくれたり、これ以上濡れないようにと玄関先まで入れてくれたり…。突然やってきたビショビショ女子6人がピンポンと同時にタクシーを呼んでくださいって助けるって、事件でも起きたかと驚かれたろうに。

さり気なく去り際に、御理伊武が「お礼代」を靴箱の上に置いていったのをみて、大人のスマートさを感じたことも覚えてる。

 

次は野外音楽フェスに行った時のこと。

1つ目は某学ランツッパリロックバンドが行った、山梨県富士急ハイランドでの特設ステージLIVEに行った時。

千歳から羽田まで飛行機で飛び、迷宮のような新宿駅で列車を乗り継ぎ、更に何処か名前も忘れた駅でも乗り換えた。都心から離れ、車窓が山間の風景を醸してきた頃、周りに人がいなかったのを良いことに、列車の中でライブTシャツに着替えたりもしながら。ようやく、富士五湖が見え、山梨県までたどり着いたものの、日程2日間通しての雨模様

 

そこにおわします富士山が裾野までスッポリ隠れている始末。高校の修学旅行以来にお会いできると思っていたのに残念だったが、カッパを着て、LIVEに臨むという生涯初の経験、そして、これからもきっとない経験だと胸が躍ったのも確かなことだった。

 

大好きでたまらなかったベースに合わせて全身を揺らせて。

 

あの場にいた数万人の観客と一緒にROCKの渦に飲み込まれ。
まだ暑い8月の終わりの盆地地帯でのこと、汗か雨か分からないもので全身を濡らして、2日目も終わった頃にはカッパも破れてた。

でも一緒に行った友達の、何かから解放されたような晴天の笑顔は忘れられない。

 

2つ目は北海道石狩浜で毎年行われるライジングサン・ロックフェス(RSR)でのこと。このRSRは、丁度天気が崩れる時期に行われるので有名だ。

2年連続で行った時、どちらかの年は、ずっと晴れで。夕焼けをバックにミスチルを、朝焼けをバッグにスカパラの奏でる音楽を聴いていたが、どちらかの年は見事に雨に降られた。

その年は降水量も少量だったからテントで凌いだりして無事だったが、今年(2019)はついに1日目が中止の憂き目にあってしまった。

 

いかんせん、だだっ広い空地に大きなステージやテントステージや屋台やイベント小屋を2日間の為に設営している野外イベントなだけに、台風崩れのような嵐がきたら避難する場所もなく、傷病人が出た場合の医療施設も近くにはなく。「何かが起きてしまってからでは遅い」という危機管理が、中止という結果になったのだろう。

 

そんな状況でも、テントを張って一夜を過ごした人たちがいると報道で聞いた。

結局、あの中止になってしまった日の夜は、警報が出ると言われていたのに、嵐なんて何処へやら。思いの外、静かな夜だったと記憶している。

1年楽しみに待っていたことが中止になった、ただ暗く予想だにしなかったはずの、なんとも静かな夜をテントで過ごした人たちは、どんな想い出ができたのだろう。

酔いしれるはずだった音を思い浮かべては、星もみえない闇夜に溶かして。ただひたすらに恋焦がれたひと夜を同志達と共に過ごしたのだろうか。

辺りが水たまりだらけだとしても、履いたスニーカーやジーンズが張り付く不快感を感じた時間で有ったとしても、ある意味での貴重な体験をした人たちを少し羨ましく想う。

 

雨は自分の世界に閉じ込める幕だ。

聞こえなくてもいい耳鳴りも、雨粒が地を弾く音が掻き消してくれる。

だから、雨の日は集中して、好きなことをしていいと世界が許してくれた日だと、私は個人的に信じている。

音楽や映画等のアートな世界に飛び込んで、どっぷりとトリップして、思うままの時間を手に入れられるのを許された時間。

逆に何もしなくても許される日でもあると、雨の音を聴きながらベッドに沈むのも良い。

自分の輪郭を縁取る雨を感じながら、夢に落ちるのも、また一興。

 

 

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「雨」御理伊武 著

突然の夕立。

桑園イオンを出た私は呆気に取られる暇もなく駐輪場の自転車へと向かう。軒下から3秒歩いて出てみれば、すぐに、ずぶ濡れになってしまう雨の勢い。しかし、ここまで自転車に乗って来たからには自転車で帰るしかない。

 

ショッピングセンターを出た人は傘を予め持ってきていたり、昼食を買いにきた近隣の背広姿の人は掛け足で会社のあるビルへ向かったり、近くに住んでいる人は買い物袋をぶら下げてゆったりと歩いてすぐ近くの自宅マンションへ帰っていく。

 

車で来て帰って行く人を羨ましく思う余裕もないまま、自転車を漕いで家へと向かわなくてはならない。

何もかも、顔も髪も服もずぶ濡れになりながら、ペダルを漕ぐ。今は一秒でも早く帰って特売で買った冷凍食品と、アイスクリームを冷蔵庫へ入れたい。それだけだ。

 

若い頃は傘にこだわりをもつJKだった。色はピンクプライベートレーベルやローラアシュレイの花柄の傘が好きだった。傘は必ずデパートで買い、遊びに行った先で忘れてきたら真っ青な顔をして探した。

しかし、今の自分の傘は100均の傘で十分なのである。時々職場の置き傘のコンビニの300円傘を借りて帰ったりもするが、きちんと返却する。雨露を凌げたらそれだけで良いという感じだろうか。別に濡れても平気なのである。ぐちゃぐちゃの髪でも顔でもその後にデートや運命的な出会はもはやないと期待も希望もしていないからか。

 

私の最近になって買った傘は、イオンで1500円で奮発して買ったジャンプ傘だ。しかしジャンプの押す部分がすぐに壊れた。閉じる部分を押さえていないと勢いよくジャンプして開いてしまうので、閉じたり閉めたりする場所では使い勝手が悪い。だから、閉じるときはゴム紐でぎゅうぎゅうに縛って閉じている。閉じるときは困難だが、開いている時は立派な傘なので大切に使っているのだ。

 

ところで、雨に打たれながら、自転車を漕いでいると自転車や徒歩ですれ違う人が少ないので学生時代に合唱部だった私は歌を歌ったりする。案外と口に雨は入らないのだ。マイカーが自転車なので、ステレオもなく、想像上の音源で歌う。タリタリタララー、頭の中は台風が近づいてきたライジングサンのような吹きさらしの草のみの会場。そして風がゴウゴウと行く手を阻む雨の降りしきる暴風具合だ。しかも本日の観客はゼロ。

「それでも、あなたの為に歌います。聞いてください。一曲目は雨。森高千里のあのしっとりとした曲です!」

一人リサイタルを、自宅に着くまで繰り広げる私のレパートリーは幅広い。アイドルっぽく森高を歌った後は、雨の付く歌をひたすら歌い続ける。それが、和洋取り混ぜのアメージングサンだ。八神純子さんの「みずいろの雨」を陶酔しきって歌いきり、レベッカの「真夏の雨」をやたらと息切れした感じで歌い、雨の勢いが弱まってきたら「雨に唄えば」英語が分からないのでとりあえず楽しそうに鼻歌でふんふん歌う。

 

気になってカラオケのジョイサウンドで「」という文字がタイトルに入る曲を調べたら、洋楽なども含めて2719曲あった。それに対して「晴れ」という文字の入る曲は同様の検索方法で281曲であった。その差はおおよそ10倍である。ちなみに、曇りが付くタイトルは35曲であった。

晴れよりも、雨の方が詩として書きやすいのか。

晴れから思い浮かぶ言葉はどうだろう。

「晴れた空、買ったばかりの自転車で、あの人との帰り道の分岐点の坂の途中で待ち合わせをしよう。」

なんて、すごく前向きな、イメージが浮かぶ。

雨だと、非常にアンニュイになって、「雨と私」「雨の港町」「雨に打たれる貴方が好き」なんて、タイトルからまず自由に次々と思い浮かぶ。

 

私は雨は嫌いではないが、雨が好きと告白されると、一瞬、「えっ」となる。

シャワーの代わりに雨を浴びたいの? 

まさか豪雨に打たれたい修行僧的な感じ? 

それとも、雨を理由に家でひたすらのんびりしたいインドア派? 

そして、私の想像を超えてしまうくらいすごく変わった感じ? 

だから、私も雨が好きとは言わないでいる。

大地に水が染みこむ感じが良い。

草木が元気になるような感じがする。ほどほどであれば。

 

2018年の10月27日、札幌は暴風雨により、土砂災害警報が発令された。

あの、どきっとする携帯の音と共にである。山に近い我が家も雨で地盤が弛んで常に山の形状が崩れれば、一気に流されてしまう可能性があった。避難勧告区域と道路を挟んですぐ側だったので、そのときは街にいて良かったなあと思ったのだ。そのピロピロピロリーンとい音楽が街中で呑気にハローウインパレードをしている最中に携帯所持者の殆どの人から流れた。ピロピロピロリーンの連続である。しかも、一時間以上間隔を置いて、流れ続けた。その雨での大きな被害はなかったのだが、9月6日の北海道胆振東部地震の停電の後だったので、警告の音は有り難いけれど、必要以上に動悸がするので心臓に悪い

 

雨の中、避難したらどうなるだろう。

 

子供の頃、平屋建ての官舎で車を持って居る人はそれぞれ、青いビニールシートで囲った車庫を建てていた。小学生の頃の雨の日の遊び場はそのブルーシートの中で、雨音を聞きながら、その下にピクニックシートを敷いておままごと遊びをした。

当時の道は砂利が殆どだったので、その場で染みこむからか流れてくる水もなく、私たちのビニールハウスの小さなお家で飽きるまで遊んでいられた。それは遊びであって本当にその場所で24時間過ごすとしたら想像を超える苦労があるのだと思うのだ。

 

当時は、皆、家で遊ぶよりも外で遊びなさいと言われていたから。あまり意識せずに外で遊んでいた。公衆トイレが近くになかったので、トイレも砂利を掘って作っていた。ビニールシートの地面から伝わる冷たさは、どの月までは耐えられるのだろう。真夏の雨は温く頬を濡らす。そして僅かしか間を置かずに指先が冷えて凍えてしまう季節がやってくる。その頃には家で遊んでいるかもしれないが。

冷たい秋雨を同じ手のひらで受け止めるのだろう。

 

私たちの小さな生活は宇宙からみれば塵よりも小さい。

本日、雨雲はありません。

朝の天気予報を真に受けて。

午後からの公園での遊びの為にポカリスエットと菓子の用意をする。

蟻が巣の準備に忙しい。

急に流れ始める白い雲と灰色の厚い雲。

私は空を見上げる。

 

そして風がまた吹いてくる。

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「映画」高柳 龍 著

「映画古譚」                                              

 1961年、滝川の小学校に入学した。テレビが映像の主役ではなかった時代、年に数度、母に連れて行ってもらう映画館は「娯楽の殿堂」だった。

 

 照明が落ちるやブザーが鳴り響く。身構えるのと同時に心拍が始まる。両側の「非常口」の赤灯と大スクリーン以外は闇に包まれ自ずと正面に全神経が向かう。モノトーンのニュースは、なぜか転倒した数字のカウントダウンから始まった。

 

 その日見た「コブラ仮面」の形相の何と恐かったこと。この日ばかりは映画館の暗さを恨みながらもう溜まらず、前にある椅子の背と背の隙間から覗いたり目を瞑ったりした。『月光仮面』シリーズの、タイトルは思い出せぬが最強のヒールだった。幼心に衝撃的に刻まれたこの悪玉を倒したのは、白装束にサングラスの正義の小父さんだったのである。

 

 映画との出会いは、ディズニー映画だったかも知れない。『白雪姫』『シンデレラ』『ピーターパン』『眠れる森の美女』と全て観た。『サウンド・オブ・ミュージック』『メリーポピンズ』『チキチキバンバン』も。邦画のアニメも同様、『西遊記』『白蛇伝』『猿飛佐助』等。己の生きる境遇を遥かに越えて世界が広がった。

 

 映画を趣味の一つと言えた時期は、その後1980年くらいまで続いた。テレビッ子を自認していた小学校高学年から中学生にかけても、映画はやはりテレビとは異なる本格的なものと認識していた。迫力ある画面と音響が収斂する世界に観客は引き込まれ、その絶対時空間のみで移ろう映画は、息継ぐ間もない感動と永続する余韻を醸し、誰に言われるわけもなく鑑賞文に結晶化したものだ。

 

 定番の「007シリーズ」や「寅さんシリーズ」も一本残さず観て来たし、高校からは古い映画にまで食指を伸ばし、函館の「名画座」だったかに何度も足を運んだし、大学時代も東京のそれらしい映画館に出かけたものだ。チャップリン黒澤明の名作は勿論、『自転車泥棒』『駅馬車』『禁じられた遊び』『風と共に去りぬ』『明日に向って撃て』やチャールトン・ヘストン主演の『ベンハー』『十戒』にも心躍らせた。毛色の違うところでは任侠物にも夢中になり高倉健鶴田浩二のファンになった。

 

 妻になる人が映画館の暗さや匂いを好まず(昔はなぜか煙草の匂いがしたり湿っぽくもあった為)、止む無く暫し遠のいたものの、子供が幼稚園に入った頃から付き合いで観に行くようになった。「ドラえもんシリーズ」や「ドラゴンボール」、宮崎駿の作品などで大きな感動を得た。「スラム・ダンク」では終了後、涙が止まらず照明が点いても顔を覆って子供たちを待たせたこともある。

 

 映画における感動、それに匹敵するのは総合芸術と言われる演劇だろうか。芸術・芸能・文学はスポーツと共に人間にとって必須な文化ジャンルである。よほど絞らねば幾ら紙数があっても足りぬだろうから、最後に、自分史においてこれぞと思う2本を取り上げ語らせて頂く。当然のように多感であり自己形成の期だった高校生の時に観たものになった。

 

 『影の車』、これはロードショーで独りで観に行った(1970年)。松本清張原作。好きな俳優の加藤剛が妻子ある誠実で平凡なサラリーマンを演ずる。男は通勤バスで6歳の男の子を持つシングルマザー(演者、岩下志麻)と出会う。二人は中学の同級生だった。直ぐに打ち解け、日頃妻とのずれを強く感じていた男は惹かれて通い始める。二人の愛が燃えるにつれ女の息子が懐かぬばかりか、そのうち殺意を抱いているのではとの恐怖を抱き始める。次々と不可解で恐ろしい出来事が起こる。也夕の「幽霊の正体見たり枯れ尾」ではないが、子供の一挙一動が怖くなる。終盤、その子が手に鉈を持っていたのを見て、恐怖のあまり飛び掛かって首を締めてしまう。一命は取り留めたが、検挙された男はその子に殺意があったと縷々訴える。が、刑事は相手にしない。追い込まれた男はついに自らが幼児の時母親の愛人を殺害したことを告白してしまうのだった。人間の心の怖さを思い知った作品だった。『チャイルド・プレイ』など問題にならぬほど怖かった。

 

 『ポセイドン・アドベンチャー』、これもロードショーで(1969年)。米国から希臘に向かう豪華客船ポセイドン号が大津波で転覆する。大勢の客が亡くなり未だ生きている者も孰れは沈没して死ぬとの悲惨な中で、生き残った者達が頼れる者を認めてはその指示によって危険の続く船内を各々移動する。幸運にも残った集団のリーダーは牧師だった。彼は船底に昇る道を提言し、僅かとなった生存者を引き連れ困難に立ち向かって行くが、その経過のうちにも何人も死んでいく。最後に至ってもまた絶望に陥った時、牧師は叫んだ。かくも生きんと努力して来た人間をなぜ神は救わぬのか、と。そうして仲間を救う為に命を捧げ死んで行った。努力の虚しさ・美しさと運命について考えさせられた。

 

 尚、『風とともに去りぬ』は女子の多い文芸部であることもあって、旭川でも札幌でも一緒に行って感想文を皆で書いた思い出がある。

 

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