八味姉妹の部屋

文芸ユニット。只今、エッセイの勉強中です。

「絵」御理伊武 著

 小学校の体育館にカーテンのように飾られる絵画コンクール入賞者と学年毎に優秀として大勢の中から選抜された絵は、飾られる子供にとっては勲章なのだと思った。私も絵が得意な友達の名前を見つけては、すごいねと賞賛した。

 

 そんな私の絵も飾られたことがある。

小学校3年生の春先の桜が咲きほこる団地を描いた絵。神経質で少しでも違うことに敏感な私は立木が並ぶ光景や建物の色、団地の番号を間違えないように忠実に描いたつもりだったが、白い紙に先生からのコメントで、木の枝の先が太いのが残念と書かれていた。

 確かに、渾身で書いた絵の木の枝は、先に向かうにつれて太くなっていた。

 か弱い幼心はそこから自信喪失である。

 私は、絵は苦手なものとして、あえて触れない、授業以外では描くことのないものになった。

 

 幼い頃から、絵画は、自宅の古い官舎のコンクリートの壁を飾っていた。友達の家でも小さなピースのジグソーパズルが完成した絵を何枚も額縁に入れて飾っていたり、階段の踊り場に油絵が飾られていたり。各々の家庭で絵は身近なものとして存在していたのだろうと思う。

私が小学生だった昭和の終わり頃、当時、購読していた読売新聞は、有名な絵画のA3位の大きさのポスターを毎週か毎月か覚えてないのだが、届けてくれた。

 

 母は気に入ったものは額縁を買って飾っていた。それに新聞社の特製の深紅色の重厚なファイルもあったので、次々に名画が収集されていた。それから何度か引っ越しをしたのだが、その度に、私は持って行く物として埃をほろい段ボールの中にしまった。

 

 母は、絵が好きで自分で水性画を描いたりもしていたが、私はもう自ら新しい画用紙に向かって書く気もせず、母が描く姿を横目で見つつ、学校の課題だけを息も絶え絶えなほどに何とかこなしていた。私の画材が余ると母は上手く活用して絵を書いて、額縁に入れて家の中に飾っていた。

 

 そして絵が好きな母に誘われて、芸術の森や近代美術館に出かけた。

 全ては、私にも絵が好きになって欲しいという思いもあったのだろうと思う。

 そのほとんどが古い記憶過ぎて忘れているのだけれど。

 その中でも後藤純男氏の絵をじっくりと見たことは覚えているのだ。

 壁一面を使った雪の世界。

 木々に積もる雪と、温かく差し込む薄い日差し、その下には深い渓谷。

 渋い日本画を私は、おそらくいつもと変わらぬ顔で、見ていたのだろうと思う。

 中学生くらいの子供の心の感覚なのだろうと思う。

 すごいとか、素敵だとか、大げさに口にしたり表に表すことは親の前では必要ないと思った。だから感動が薄いとか、優しくないとか言われるのだけれど。

 

 それでも、ずっと見ていたいと思った。景色を描いた絵なのだが、枝の先まで一つ一つ心に止めておかないといけないと思ったのだ。

 絵画はそこでしか出会うことが出来ず、もう二度と会うことがないような気持ちになる。再び出会っていないので、私の判断は正解なのだと思う。今でもぼんやりと目の前のスクリーンに浮かぶ。静寂の中で一筆一筆がそれぞれに意志を持った絵に触れた良い思い出として。

 

 ふと絵筆を持ってみようかと思ったときがある。どんな絵でも額縁に入れば誰かに訴えるような、何かになるような、過ぎた思いで。

 

 丸を三つほどよく置くと、ミッキーマウスの顔のように見える。アトラクションの壁の一部や、売店の飾りや、テーマパークに目立たぬように飾られたそのモチーフを探し見つけ出すことがディズニーランドの常連らしく思われ、SNS映えするらしい。試しにおにぎりを丸く握って並べてみるとそれらしく見える。

 

 しかし、丸を離して並べると人の顔のように認識されて心霊現象ではないかと恐れられたりもする。祖父母の家に泊まりに行ったら部屋の天井の木の染みが人の顔のように思えて、恐ろしく思い、電気が消されたら布団を頭までかぶって眠っていた。

 

子供に人気のアンパンマンも大きな丸の中に頬と鼻を頬の丸を三つ、後は目と眉毛と口を書けば完成する。誰にでも描くこと出来てそれらしく見える。児童館に行けば書き手の職員さんによってほんのミリ単位で違ういろんなアンパンマンに出会えて楽しい。絵が苦手な私も、アンパンマンだけは、「何これ?」とは言われない。

 

 スマートフォンの絵文字の顔も丸くその中の線の傾きで感情を表している。

 私はたまにその丸に線を入れた具合の下手な絵を、メモ用紙の下に書いて一人で楽しんでいる。たまにキャラクターに挑戦して「ぐでたま」というキャクターに似せれば変なタラコみたいになるし、あやふやなままドラえもんを書いたらオバQとの良いとこ取りの何物か分からぬ新しい生物になった。

 

それでも下手は下手なりに良いなあと私は思うのだ。少なくとも人を悲しませるようなことはないだろう。

 

 大学の講義の芸術論で、静物画の中テーブルに置かれた果物一つ一つに意味があると教わった。色鮮やかな林檎は身近な果物で、愛を象徴するという説の一方で、読み取り方によっては誰かを殺してしまうほどの毒を含んでいるかもしれない。

 

 深読みしすぎる私は今は歯医者の椅子の正面に飾られた絵が恐ろしい。

 

 カモメが飛ぶ青い空、穏やかな海、そしてヨットみたいな簡易的な船を描いた絵なのだが。人はいるのだが動きがない。風がなく空気がとまっているような感じがするのだ。

 

 椅子が倒れてからも怖いのに、私はその全体的な空と海の青さに不自然さを覚えて身震いする。

「背中、倒しますよ」優しい声がして、背もたれが倒れる。見上げる天上にも、水色の中にプカプカと雲が浮かぶ空が描かれている。

 

 子供部屋の天上が空のクロスだったら良いなと思ったのは中学生くらいのころか。双方の人工的な不気味さに、私は瞼を瞑る。目を開けてくださいとは言われないので、閉じていることにする。

 

 

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