八味姉妹の部屋

文芸ユニット。只今、エッセイの勉強中です。

「絵」高柳 龍 著

◇ 絵 ◇    「 秘密基地にありしもの 」        

 “なあに水面まで高が50㎝もない滝壺だったのか。これを滝壺と呼んでいいのか、別称が浮かばないのが面映ゆかったが、無性に懐かしかった。あれから10年以上も経って姿を留めているとは”

 もう40年以上も前、つまり大学時代にひょんなことから足を伸ばして幼い頃の遊び場を訪れた際の感懐だった。灌漑水ともなっている川がやがて耕地を離れ細いせせらぎと化し、のんびり原っぱを通って段差のある個所に小さな滝を作っていた。その後直ぐに右に曲がって大きな川に注ぎ込んでいた。当時はさすがに近くまで住宅地が迫っていたところもあったが、川に沿う佇まいにさほどの変化のないのが嬉しくもありもの哀しくもあった。

 

 そこは小学校の1年から3年まで、友だちとしょっちゅう遊んだ秘密基地だったのである。小滝が作る淵さえ深さ30㎝にも満たぬものでそこから流れる小川は深さ20㎝位だったか。

 塩辛蜻蛉や揚羽蝶やらの昆虫に加え、水中生物の捕獲場所でもあったが、それより素足になっての水遊びに興じる所であり、程よい時間で草地に寝転べば格好の休憩場の所ともなった。自分たちだけの秘密基地だったのである。

  そこに最初連れて来てくれたのは小学校に入学して最初の担任のM先生だった。30代ということだったが頭頂が既につるつるで小太りの笑顔の似合う人だった。教室にはメダカや泥鰌、鯰の水槽が置かれ、入学して間もなく餌をあげたり水槽を洗ったりする当番が告げられ、特に鯰には手を焼いたものだった。

 

 生き物が好きだった私を見抜いたのか、夏になってM先生が水棲生物を捕りに行きたくないかと聞いて来た。即、返事をすると「じゃあ、お母さんのお許しを貰いに行くね」と言われて、その日の夕方私の家を訪ねて来た時は、まさかと思っていただけに玄関で応対する母のお尻に隠れていた。

 

 待ち遠しかった。約束の土曜日の来るのが何日間にも感じた。

 当日、言われた通り麦藁帽子と長靴で待っていた僕の前に。同じいで立ちの先生がいた。後ろに駐めた自転車の前の荷台に籐の籠を取り付け、その中にバケツが入っているのを見た。母に挨拶するや後ろに乗れと言う。母も嬉しそうに目を細めていた。先生のお腹に手を回すようにして跨った私は、照れ臭かったけれど大声で行ってきまーすと叫んだ。水田地から森林を抜け到着した所は広大な原っぱだった。勿論その間の道は砂利も含め地面だった。昭和30年代半ばのことで1台の自動車にも擦れ違わなかった。

 その日の楽しかったことははち切れんばかりのもので却ってよく思い出せない。ゲンゴロウタガメ、ヤゴを捉えては生態を教えて貰ったり、長靴の先で川底をグイグイ推し進めて泥の渦巻きから飛び出てくる泥鰌をたも網で救ったりもした。大きな鯰を捕らえるのに先生が尻もちを付き、刹那吃驚した私だったが、先生自身が大笑いするものだから私も腹の捩れるほど笑った。その後二人して滝の横の土手の草原に素足になって寝転んだ。草のベッドはふっくら温かく草いきれがいい匂いだった。太陽光が二人を容赦なく照らし眩しさに閉じた瞼裏も赤く透けていた。

 

 2回目は夏の終わり、私の方からねだるのを制していたせいかも知れない。今度は皆自転車の補助輪が外れていたので友だちのI君とK君も一緒に行っていいかと尋ねた。M先生はちょっと考えて、いいよと言ってからじゃあ4人だけの秘密の場所にしようと言った。何だかドキドキ、ワクワクした。  それから2、3度行き秋となったある日、3人の中で一番積極的なK君がうるさいので意を決して放課後「秘密の滝壺」に行こうと先生に願い出た。その時も先生は少し考えて次のように言った。

 

「先生、今忙しくて一緒に行けないんだ。だから3人一緒なら行ってもいいよ。……但し、掟を守ってくれなければダメだ。守れるかい?」

 勿論、「ハイ」と言った直ぐからK君が掟って何?と聞いた。

「1 絶対に滝壺に飛び込まないこと。 2 滝壺から右へ曲がっていくところからは遠くに行かないこと。 3 みんなで掟を守っているかどうかを互いに見てあげること。……この3つ、だいじょぶ、守れる?」

 

  3人は互いに見つめ合いながらハイと言った。

 

 それから何度遊びに行ったろう。M先生が突然見に来ることもあった。「掟」という言葉は「約束」という響きより強く、絶対だった。結束は嫌が応にも強まったと思う。

 2、3年もなぜか同クラスだったI君とはずうっと仲良しだった。2年から他クラスになったK君は次第に滝壺の仲間から遠ざかったので、その替わりにS君、W君を加えていいかとM先生にお伺いを立てた。そのグループが3年まで持ったのも不思議であればし、別の人が滝壺に来なかったのも信じられなかった。楽しくて堪らぬ自分たちとしては。

 その仲間と別れることになったのは夏休み中に父の転勤で私が引っ越したからである。それからずうっと彼らにも会っていないし、滝壺を訪れたことも無かった。

 けれども、この思い出が形となって残っている物が今も実家の納戸にある。3年生の時、夏休みの宿題で描いた水彩画である。題して「昆虫採集」、四つ切りの紙にI君と私をド・アップにして描いた。捕虫網を草の上から被せてその隙間から殿様バッタを摘まみ出す私を、I君が自分のことのように嬉しい表情で膝をぶつけるようにしゃがむ景である。バックには秘密基地である滝壺と原っぱで飛び跳ねるS君、W君を小さく描き入れた。この絵で市のコンクールで最優秀賞を貰った。

 

 付け加えることがある。この絵はほとんど家で思い出しながら興に乗って描いたもので、完成間近の興奮におやつを取りに立ち上がった時だ、座卓いっぱいに広げていた画用紙の端に膝小僧が当たり、その衝撃が隅に置いてあった水入れを倒し、あろうことか画用紙一面に流れ広がったのだ。慌てて布切れでポンポン叩くようにしたが却って別な色が付き、今度は慌てて新聞紙を数枚束ねたもので覆った。涙が出そうになった。動揺を抑え悔しさを押し殺して、それまでとほぼ同じ時間を掛けて修復を試みたが、全体がぼうっとした印象になってしまった。諦めるよりない、しょうがなく提出した作品だったのだが。

  大学生活に何があったわけでもないが、ふっと訪ねたくなり行ってみれば可愛い自分の幼心を思い出した。人間として大切な純粋さを取り戻せたような気がして悪くないと思えた一日となった。美味しい夕食にありつけた。

 因みにM先生とは40年間、先生が亡くなるまで年賀状だけのお付き合いをした。あまりに照れ臭くて会いに行けなかった。亡くなられた時、先生が編まれた「T市 野の花の手帳」というミニ図鑑を奥様が送ってくださった。


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