八味姉妹の部屋

文芸ユニット。只今、エッセイの勉強中です。

「SAKANA」御理伊武 著

水槽からオイゲノールという麻酔薬の入ったバケツへ小さな網を使い、魚を移す。

手のひらほどの大きさの魚は新しい水色の円の中をくるくると自由に何周かした後、

ゆっくりとプクプクと息を吐きながら浮上する。

 

私は、魚が軽く眠った頃を見計らい、白いビニールの手袋をはめた手で魚を引き上げ、

体長を計測する。頭から尾ひれまで二十数センチの若い個体だ。

体長と体重の計測が終わると麻酔が切れる前に、

私はメスを入れる。

 

肛門前からお腹の曲線に沿って切り目を入れ、エラの下まできたら、

エラの上から切っていき、腹部を開けるようにする。

三角形に開けたら、上の部分は尾まで真っ直ぐに、小さな鋏で切り取る。

その際に魚の腹の中心を走る浮き袋を潰さないようにしなくてはならない。

 

通常であれば、先程まで泳いでいた魚の浮き袋は空気を含んで細く膨らんでいる。

解剖で知りたいのはその内側にある生殖腺だ。

 

生殖腺が白く長く発達していれば、雄、それ以外はおそらく雌。

浮き袋が潰れたら縮んで細く白い線となり、ただでさえ小さな個体なので、

生殖腺との判断がつきにくくなってしまう。

 

魚は薬によって仮死状態のまま、冷たい台の上に上がる。

私は開いたお腹の中の浮き袋のふくらみを見つめる。

上司である先生が、その浮き袋の中側を手でめくり生殖腺を確認する。

 

「雄、これも雄、雌、うーんこれは雌。これは雄」

判断に迷う時に先生が少し困ったような顔をする。

水槽のモーターがジーと唸る音をたてている。

魚を飼育している部屋は、殆どが水で覆われ夏も間近なのにひんやりと冷たい

 

また、私は水槽から麻酔薬の入ったバケツへ魚を入れ、

そして眠った頃に引き上げ茶色のペーパータオルの上に乗せる。

 

この時点では生きている。

 

そして、私がお腹を裂く。

 

ここからはだ。

 

三角形に切り開いた体には、きれいな目が閉じることなく宙を見ている。

若く白く銀色に光る体の色は、白いドレスが似合う若い姫君の

瞼に乗せるアイシャドウの煌めきのように思う。

 

今朝まで自由に泳いでいた何も知らない魚の目。

切り取った銀色の三角形の皮膚。

雄と雌、それだけための炎。

16時から始まった実験は長引いて、私の白い手袋は紅く染まる。

木々に覆われ、光が入らない部屋にジーというポンプの音が響く。

時折コポコポと魚と水が跳ねる音。

 

私が体長と体重を読み上げる声が、場違いのように響く。

徐々に自分が切り開かれてしまうような感覚に陥り始める。

吸う息と吐く息が薄くなり、体に入らずに、

ただ私はその中で

必死に息をしようともがく。

 

体を開いた後、尾ひれを切り心臓のポンプ作用を利用し

そこから血液を採取するため麻酔は薄い。

体長の大きな魚は完全に麻酔が効かずに途中で目を覚ます。

台の上で暴れた魚が残した血液が私の頬に跳ね、

体を押さえて実験を続ける二人の白衣に染み込んでいく。

計測の終わった魚はペーパータオルに切り取った破片と共に包まれ、

蓋の付いたゴミ箱へと捨てられる。

 

20代の後半に私は魚の研究施設で助手をしていた。

何百個の卵の状態からふ化を経て、仔魚時代に多くの仲間を失い、稚魚になり。

わずか数えられるほどになるまで育ててきた。

職場では環境や化学物質によるホルモンの変化などを研究していた。

魚は測定の為に育てていたのだが、毎日世話をしていると当然に愛着がわいた。

 

毎日、朝出勤したら、まず飼育室へ行きポンプで水槽の掃除をし、えさを与える。

夜が明けて皆が元気に泳いでいるのを見るとほっとした。

実験の二日前にえさを止める。

私は、普段と同じ様に掃除をした後、最後のえさはいつもよりもわずかに多く与えた。

 

私は子供の頃、バケツの中で金魚を飼っていた。

バケツだったが、六月のお祭りから冬の初めくらいまでは一緒にいたと思う。

しかし、ある日、朝起きて見ると、魚は床に飛び出し、体を横にして死んでいた。

 

それ以降は飼っていなかったのだが、最近、家のTVが壊れて何も見るものがないので

テレビ台に金魚の水槽を置いて飼い始めた。 

二匹の金魚にそれぞれ名前をつける。少しだけ大きな魚と小さな魚。

水槽の周りをくるくると回る。

一匹を追いかけては中断し、下に落ちたえさを探す。

 

生き物がいるとついそっちに気を取られてしまう。

毎日、泳ぐ様子やえさを食べる様子、糞の漁や鱗の状態を

水槽に目が向く度に観察している。

 

食器を洗い終え、蛇口を占めると、音のない部屋にポンプのジーっという音が響く。

 

私は、水で溢れたあの部屋を思い出す。

 

人よりも多くの魚が呼吸する空間。

水と外とを隔てる僅かな水面の層に、多くの空気が溶けている。

魚はエラを広げ、酸素を取り込もうと水面に近付いて口をパクパクさせて泳ぐ。

 

麻酔薬は区分4の毒性だ。

死に至らないまでも、経口については誰も試したことはないだろう。

鍵が必要のない扉。

目分量で減っていく薬。

冷たい台の上に置かれたペーパータオルに横たわる魚。

水分が吸い込まれていく。

 

眠りたいと思った。

魚のように。

眠る先に、私の身体はないかもしれない。

 

そこにあるのは、無なのか、わずかに残る大切な記憶を旅するのか。

誰かの手が見えるが、その手が誰の手か分からない。

瞼に浮かぶ水色は、空の色かバケツの色か分からない。

ただ、ただ、眠たいのだ。

 

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和金