八味姉妹の部屋

文芸ユニット。只今、エッセイの勉強中です。

さっぽろ市民文芸にて「優秀賞」を頂きました!

厳正な審査の結果に受賞された作品は「さっぽろ市民文芸」という本に掲載される企画に応募した結果。

2019年発行の第36号「さっぽろ市民文芸」
詩部門
タイトル「廻るあいでんてぃてぃ」
「優秀賞」を受賞させて頂きました。

初めて応募したというのに有難い賞を頂くこととなり、今回、授賞式に参加して参りました。
蒼月光の名前で応募はしたものの。赤ペン先生をしてくれたり、半ば送付を諦めていた(丁度、文学フリマの準備期間と重なり時間がとれなかったのもあって)背中を突き出す勢いで押してくれた、相棒の御理伊武がいなきゃ受賞できなかった作品でもあったので、八味姉妹の二人で。

久々に向かった教育文化会館。かつて学生時代に合唱部としてステージに立った思い出の場所で、まさか自分の創作作品の授賞式を行われるとは思いもしないことでした。

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受付をするにも本名ではなくペンネームで取り交わす世界。
この感覚はいつ以来だろうとこの時点で感銘を受けながら会場の中の席に着きました。

順番に名を呼ばれ、応募した作品のタイトルと自分の名を呼ばれた時の、鳥肌が立つ感じは、忘れられないものになりそうです。

なにせ自分の創作作品がこうやって世に認められたのは生まれて初めての体験。
事前に封書にて受賞のお知らせを頂いてはいましたが、今一つパッとこず。
授賞式を体感して、初めて「あぁ、本当に受賞できたんだ」とようやく実感できた次第で。

授賞式が終わり、部門に分かれての懇親会にて、選考委員の先生からの賞状の贈呈や論評会は、夢にいるようなフワついた感じでした。
否定的なことを言われることも無く、恐縮してしまうほど高評価を頂き、本当に純粋に嬉しかったです。

ずっと隣にいてくれる御理伊武は、終始ニコニコしていて。
なんだかそれだけでも、正直、幸せな気分でした。

想定外だったのは、自分の作品を音読したことくらい(笑)
まさか読むことになるとは思わず、緊張のあまりツッカエたりしてしまったけれど、改めて胸がいっぱいにもなりました。
私の文芸人生の原点、高校時代の文芸同好会を思い出したりもして。
机をロの字の陣形に並べて、お互いの作品を講評し合うのは、あの当時そのままの様相で。
あの講評会のやり方を教えてくれた当時の顧問の先生を呼びたいくらいでした。

式の中で開催された澤田展人氏の「深沢七郎 『笛吹川』を読む」という講演会の中で、「個人の能力はその個人の所有物なのか?」という問いが出てきましたが、私はそうは思わない方に一票です。
産まれてからその作品を創り出すまで、一人で生きてきたという人がいるなら別かもしれませんが、どうしたって周りの人や環境の影響を受けて、年を経ていくのが人だから。
今回の受賞も、今まで接してくれた皆さんのお陰だと身に染みて想っています。
私を知ってくれている全ての人への感謝と、これからもどうぞお見知りおきをば。

八味姉妹 蒼月光


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因みに「さっぽろ市民文芸36号」は札幌市内の紀伊国屋書店・弘栄堂書店・コーチャンフォー三省堂書店札幌店・ジュンク堂書店・北海道文学館・教育文化会館1階プレイガイドで販売中。
もし見つけたら、手に取って見てみて貰えたら幸いにございます。




小説「カレーライス」 御理伊武 著

最後の夕食をカレーライスにしようと言ったのは私と彼とのどちらからでもなく、冷蔵庫に玉葱とにんじんの切れ端とすっかりやわらかくなってしまったじゃがいも、冷凍庫に残った一握りの細切れ肉があったからだ。

 

 同棲していたアパートの一室から私は出て行く。私が買いそろえたものは全て、先の住まいに送ってしまっていて、後はショルダーバックに収まる分の荷物しかない。

 台所の戸棚の奥には、いつ買ったのか分からないバーモンドカレー中辛の箱が残されていた。賞味期限は三ヶ月過ぎていたが、おそらく問題なく食べられるだろう。

 彼と二人で暮らしていたのに、この部屋では料理はほとんどしなかった。お互いに仕事で忙しく、夕食も会社の中で食べたり、コンビニのお総菜を買ってすませたり、たまに料理をするのは日曜やお互いの休みがあった日に気まぐれでするくらいだったので、冷蔵庫の中はビールや飲み物くらいでほぼ空だった。

 

「最後の日くらいは、高級フレンチとか、焼き肉とかでも良かったのに。」

と、彼が女々しいことを言って、

「残っている野菜を無駄にしたくないから」

と私が答える。

会話が重視されるフレンチに行って、料理の合間に愛を語ることもないのに。ワインばかり進んで、なんのお祝いもない状況で酔っぱらってどうすればよいのか。焼肉にしても。途中で、なんでこの人と肉を焼いているのだろうと。遺伝子を残す予定が全くない今、原始人から受け継がれたDNAがMUDAと言うだろう。

 

その言葉には、もうあなたについて一銭も無駄金を使いたくないという裏の意味もあるのだけれど。

 

 別れることになった原因はお互いにあった。彼は自他共に認めるモテ男でその上、来る者拒まずの優しい性格なので、私以外にも中高生から大正生まれの女子まで、幅広く好かれていた。

 彼はヒヨコドラックで薬剤師をしており、地元では若くて優しい優男であった。そこで、同年代の女性と、親密な身体的な相談を受けた上で、もっと親密な密着した仲になっても、まあ、その場限りで成り行き上行くしかなければ致し方ないというのが、恋人であった私の広い心の上での見解だ。住んでいる街には、パチンコ屋と、スナック、後は海くらいか。遊ぶ場所がないから、人に依存するのは仕方ないと思った。

 私が浮気についても見て見ぬふりをし、彼が二股三股をしてもそれを咎めずにいたので、それがいつまでも続くと彼は思っていたのだろう。

 

 そんなある日、彼の車のダッシュボードから、分厚い封筒を発見した。 

 昔、八百屋を営んでおり、今は未亡人となった奥山のおばあちゃんからの何十枚にも渡る恋文だ。情緒に溢れ熱を帯びた文章で、何十枚に渡って書き綴られている。私の理解を超えた関係に二人はいることが分かった。

 彼はおそらく、ヒヨコドラックの薬剤師として小さな町で安泰で色多き人生を歩んでいくのだろう。私は職場から電車で1時間かかるこの場所にいる必要はないのだ。私が次に住む場所は、木造だけれど、目の前に公園があって、春になれば桜が咲くらしい。

 

 彼を必要としている人がいる。

 

 私はふらふらとしたこの人と一緒にいて、どうなるのか分からなくなる前に、自ら逃げたのだ。

 「カレーっていうとさ、小学校の時に炊事遠足に行って作らなかった?」 

 「作ったよ、飯ごうのお米は焦げ焦げで、カレーはジャバジャバ水っぽいの。」

 「美味しかった?」

 彼は聞く。

 「無理矢理食べたよ。それしかないし。」

 「俺は、カレーも焦げてて、焦げがまだらに浮いてるからさ、米だけ食べたよ。」

 「初心者のキャンプってそんなものだよね。ところでさ、玉葱、どうする? めちゃくちゃ刻む?」

 私は、狭い台所に並ぶ彼に聞く。

 「全部刻んだらファミレスとか給食風かな。大きめに切ろうか。」

 「じゃあ、おねがい。私は米取ってくるわ。」

 家のお米はなぜか、玄関横の物置の中にある。冷暗所といえばここしかないからなのだが。

二合分をプラケースで取り、少しだけ追加する。カレーのお米は、これで水量を二合に合わせるとしゃっきりとしたカレーや寿司飯に合う炊き加減になる。

 取ってきたお米を洗い炊飯器にセットする。

 だぶん、ここで彼と暮らすことはなくなっても、同じメーカーの炊飯器を買えば、

おそらく、同じ炊きあがりのメロディを聴くのだろう。

 その間、彼は玉葱とお肉を炒め始めたところだった。私はにんじんとジャガイモも切り彼に渡す。鍋も調理道具も、付き合い始めて間もない頃に二人で買いそろえたものだ。

 その彼のつやつやの頬におそらく、最後のキスをして。

 一瞬の間の後にキスを返される。

 奥山のおばあちゃんの顔が一瞬よぎるが、彼はケトルで沸かしたお湯を多めに鍋に注いで、後はIHの熱に任せて煮えれば良いだけにする。

 

 「カレーの他になんかいる? ビールしかないからさ」

 「サラダと、アイス。せっかくだからハーゲンダッツのクッキーアンドクリーム。」

  それじゃあ、買ってくるよと、服を着始める彼を私は、じゃあ、火加減見てる、と言って、送り出す。

 

 炊飯器の炊きあがりの音楽を半分眠りながら聴いて。

全てくたくたに煮えた頃、私はIHの電源を切る。お米は炊きあがってから2hの表示になっていた。カレールーをドボンと入れる。ゆるく固形の茶色が滲んでいく。

 テーブルの上には二つのグラスとスプーン。色違いの箸。カレーが来るのを待っている白いカレー用のお皿。それも、もう何年も前に二人で買ったものだ。

 

 私の座る側に鍵を置いておいた。

 彼はクッキーアンドクリームを何事もなかったような顔で買ってくると思うのだ。近くのコンビニになかったから、イオンまで行ったよなんて言いながら。

 そんなことが何度もあったから、心配はしない。

 悪気はなさそうな顔をするから、悪気はないんだよね、そんなところが天然だものねと、私も深く問い詰めないでいたのだ。

バックを持ち、もう、何も忘れ物がないことを確認して、部屋を出る。

鍵は開けたままだ。

家を出たことをLINEしようかと思ったが、既読になりそのまま返信がないのも、返信があればその返事を返すのも、面倒だった。それに、きっぱりと断とうとした思いが、なにかの拍子にぐらついてしまうようで怖かった。

 

玉葱と肉を炒めた空気が鼻の奥に残っている。

日はすっかり暮れ、秋の夜の空気は冷たい。私はゆっくりと深呼吸して、カレーになる筈だった物の気配を追い出そうとしている。

彼は帰って来たら鍋の火を点けるのだろうか。カチカチともボオッともいわず、ピットいう電子音とともに鍋が熱されて、煮えすぎた具材がカレールーが溶けるよりも早く崩れ始める。木べらで混ぜていくうちに形も何もかも姿をとどめずに。焦がすわけにはいかないのでぐるぐるとかき混ぜる。その手は彼の手だ。その指も手のひらも私は、そのうち忘れてしまうのだろう。

どこからともなくカレーの匂いが漂ってきて、幸せな家庭を想像する。

私はそのまま通り過ぎて、もう来ることはないこの街と風景を記憶に刻みながら、駅まで歩いていく。


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「本」蒼月 光 著

私はベッドサイドにお気に入りの詩集を置いている。

眠れない夜と目覚めの悪い朝のお供に。

もう何度も何度も読み返して紙も変色した文庫本ばかりだから、うっすら言葉も覚えてさえいるのに、読む時の心境で意味が変わるから不思議なものだ。

 

例えば、同じ詩であっても、孤独の寂しさを滔々と述べているのかと思った次の日に読むと、孤独の自由を謳歌していると自慢気な気分さえ伝わってくる…といった具合に。

だから、朝に詩集を読むと、その日の自分の調子がちょっと分かる。

喜怒哀楽メーターのどのメモリを強く感じるかで、今日はちょっと過敏になってるかな、今日はシャカシャカ走れそうだ、とか。

逆に夜に読むと、その日の充実感が分かる。一日にあったことよりも遠くの想い出を思い出すなら、その日は頑張った日、もしくはシンドくて疲れた日といったように。

 

詩は短い言葉の中に濃縮した世界を閉じ込めるから、時に意味が読み解けない記号のようなものも有る。書いた本人ですら本当の意味を理解できないまま、語感のリズムで浮かんだ言葉も中にはあるのかもしれない。

そんな正解のない文字列を自分の実体験に準えて、自分しか持っていない辞書片手に鼻歌を歌うように解いていくのも、また楽しい。言葉を知らない幼児が、それでもご機嫌な顔で何かを歌っている時と似ている面白さがある。

 

一人で何処かに出かけて行くときも、短篇小説を鞄に忍ばせていくことが多い。
携帯用のお化粧ポーチが小さいから、その分のバッグの余裕を埋めている形だ。

人込みに紛れるとひどく疲れを感じる質なので、休憩によくカフェやファストフード店を利用する。いつも選ぶは窓際の席。右に左に流れる人の群れを水族館の魚を鑑賞するようにしながらお茶を飲み。ちょっと落ち着いたら、おもむろにバックから本を取り出す。

 

最近のお気に入りは、又吉直樹氏とせきしろ氏が著作の「カキフライがなかったら来なかった」。御理伊武に勧められた、エッセイと呟きのような詩が載った本なのだが、とにかく面白い。

二人の作者の個性は全く違うのに、一つの本の中でお互いを主張しあうことなく、絶妙な力量で二人の個性が共存しているのが読んでいて心地良い。

おまけにエッセイも超短編で、1篇数ページほどしかないものだから、いつでも区切りの良いところで栞を挟むことが出来るのも良い。

 

私事になるが、今年初めて八味姉妹としての本を作成した。
文学フリマという全国を廻るイベントの札幌会場で販売するのが目的だった。

本来ならば、本がありきのイベント参加ということになるのだろうが。好奇心旺盛で記憶や思い出に残ることがしたいと切に願っていた私達のこと。あまり先を考えずに文学フリマのサイトで出店希望のボタンを押したら、抽選の結果、受かることとなり、出店するに至ったのである。
さぁ、そこからの時間の濃ゆかったこと。

 

そもそも本を作ること。高校の文芸同好会以来としては、まだ八味姉妹と名付ける数年前に一度だけ、本当に趣味の範囲でホチキス本を御理伊武と作成して周りの人に配って悦に入って以来の初めての、本。

印刷所に印刷や製本を依頼するのも初めてならば、1冊の本としての構成を手掛けるのも初めての体験。潤沢な資金があるのならば印刷所にいるその道のプロの方に丸投げにして、願望そのままを伝えて、理想通りのモノを創って貰うの手もあったろうが、そうもいかない懐具合なものだから。現実的なやりくりをしながらの試行錯誤。

 

結果的に、それが良かったと今なら思える。

編集長役を務めてくれた相方の御理伊武には恐縮されっぱなしだったけれど、本当に充実した苦しくも愉しいモノヅクリの時間だったから。

 

どんな風にしたら、読んで貰えるだろうか。

どんな風にしたら、読みやすいだろうか。

 

共感して頂いたり、言葉遣いが甘いと鼻で笑われたり…良くも悪くもそういったことを思われるには、読んで貰えることが当たり前の第一前提で。

 

PCモニターの明かりを浴びながら一人でただ考えていても何も浮かばず。自然と本屋に足が向いた。そもそも本屋に行く回数は並の人以上だとは自負しているが、あの時期はおそらく店員さんがいぶかしむ程には本屋に通ったと思う。

 

表紙から本のサイズに始まって、文字の置き方・構成方法…目についた本を隅々まで立ち読みしては、お店の中心で「へぇ」を唇から先に出ないように気を付けながら連呼していた。この年齢まで読書を趣味と公言してきた私だったが、本の成り立ちにまで気を回したことはなかったのに初めて気付いたのだ。

 

結果、紙の質にまで目が届き、手漉きの紙で表紙を作ることができたら…とまで夢想し、某アイドルグループがカレーを作るのに土や種を選ぶところから始まるコーナーに妙に共感するところまで行き着く始末。その度、御理伊武編集長に否定されることはないものの、いつの間にかやんわりと現実に戻されることをくり返し、着々と本づくりを進めることが出来たのである。

 

表紙を「赤」にしようと言ったのは御理伊武の案。「八味姉妹」の名前の由来の一味と七味唐辛子の色に掛けたのと、とにかく目立とうとしたのが理由。

結果、それが全てで、それが良かった。

初めてにしては、胸の張れるモノが出来たと、季節が変わった今でも思えるから。

 

色々な方に見て貰えたらと思いながら、流通の方法を模索中な現在。売り手も買い手も手軽に出来る方法が有ればと、段ボールに潜んでいる在庫達とにらめっこで悩んでいるのは、また別の話。

 

初めて本を作っただけのちっぽけな存在ながらも。いつも触れてきた本の仕組みやどれだけの人の手を経て、自分の家の本棚に並んでいるのかを考えるにも良い機会になったのは間違いない。

 

最近は、手軽な電子書式が流行りだけれど。

やはり、私は紙媒体でないと、と思ってしまう。

手に感じる一冊の本の重み。

一ページ目を開く時と最後のページを閉じた時に受ける微かな空気の動きに同調する心臓の鼓動。

本の楽しみ方は、読むことだけではないというのは、ニッチ過ぎる考え方だろうか。

 

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「本」御理伊武 著

履歴書の欄に趣味は読書と書く。

2000年のミレニアムのお祭りの後の就職氷河期に、特技や趣味は必要ない。

新卒採用の面接で、若い人は素直で使い勝手があり、新規顧客の開拓に親族友人を紹介してくれたのならば、その時だけほめて後はお役ご免。また契約を取らなければいらない人として無視される。

そんな時代だった。

就職活動の面接でも趣味は読書です。と張り切って自己紹介をしてもその先は聞かれない。

得意なスポーツはと聞かれ水泳ですと言う。好きなだけで実際は息継ぎが苦手で背泳ぎしかできないし、浮き輪でプカプカ浮いているのが好きなのだが、そのつど、肩ががっちりしているよね。と定型文のように切り替えされ、私は、アハハと面白くもないのに笑う。

 

名前ばかりの会社に入った私は札幌駅前の立派なビルで働いていた。大学を卒業したばかりの女子なんてまだほとんど学生のようだと思う。周りの大人の空気に馴染めず、自分から擦り寄ることもしなかった私は一人で昼休みを過ごした。

 

同期もいたのだけれど、皆は営業部、私は一人借金を回収する部署にいた。昼休みは一人で駅の地下のイートインのあるパン屋やドトールコーヒーで昼食を取り、本屋に寄って立ち読みをするのが毎日のルーティーンだった。

素直で頭の中が真っ白な女子だったので自己啓発本を貪るように読んだ。読んで、本屋を出ると、午後からの過酷な仕事もなんとかなるような気がしたのだ。そのがんばりの対価の月収は決まっているのだけれど。あらゆる自己啓発本に背中を押されて私は前進していた。日経の雑誌に載るような素敵な女子になる未来さえ思い描いていたのだ。

 

話は幼少の頃に遡る。私には何歳か年上の従兄弟が一人いて、彼はとても優秀だったのだと思う。お下がりに児童書をたくさんもらい、私は貪るようにその本を読んだ。中でも、まぬけシリーズは何度読み返したか。お気に入りで毎日のように玄関の脇に置かれたカラーボックスの本棚の前に座り本を読んでいた。外国の人が書いた本を翻訳したものだと思う。グーグルで検索してみたが本の詳細については出てこない。「電気のコンセントを濡れた手で触ってはだめ。もし触ったらびりびりと感電して火傷するよ」というようなことを、馴染みやすいイラストともに物語形式で書かれている。今でも十分面白く生活について学ぶ良い本なのだが。

 

飽きもせずにひたすら何度も読み返していた。それで、生活における危険な場面は学んだと良いほどの本だった。とりあえず、ビルとビルの間にロープを張って、綱渡りをしようとは思わない常識人になって今まで生き残ることができたのは本のお陰だ。本の中の少年は綱渡りを試みて落ちている。足を踏み外せば真っ逆さまに落ちる。私はどんなことがあっても、本の言うとおりに間違ったことをしたら、遠い空の上の神様にしかられると。通常の道を外れないようにそれでもミシン糸のように今にも切れそうな細い道を選んで進んできた。

 

玄関脇のオレンジ色のカラーボックスを使った本棚には、お下がりの本や親戚からもらったディズニーの本や、児童書がたくさんあり、そこに並んだ本は私だけの場所だった。文字という文字は全て読んでいたのだと思う。読む物がないときは朝刊に折り込まれた黄色いチラシの安売りの値段を、朝早くこたつ布団に入って眺めていたほどだ。

 

小学校の図書室にある本は昆虫の図鑑などは苦手だったが、興味のある本はあらかた読んでしまっていた為、放課後、PTA会議室の中に忍び込んで、用務員さんの巡回に息をひそめて放課後のベルがなるまで、一人でPTA図書を隠れて読んでいた。文庫本を中心にあらゆる雑多な本が並んでいた。面白い本などなくて、教育熱心な親が読むような子育ての成功談にまつわる本ばかりだったのだろうと思う。それでも文字を追っている時間は幸せだった。もし、見つかった時に言う、言い訳についてあれこれ考えながら、一人、西日の差し込む部屋の机の陰に隠れながら、最後の鐘がなるまで本を読み続けた。

 

本のある場所が、私の心が安まる場所だと感じ始めたのはこの頃からだと思う。

 

家になるべく帰りたくなくて、場所を見つけては本を持ち運び読んでいた。コンクリートの外階段の隙間、下水処理場のテニスコートに改造したけれど誰も使わない広場。子供一人が忍び込んで隠れることの出来る場所で、私は小さなリュックに入れた本を読んでいた。

 

中学校に入ると、図書館があり、図書カードを使い自由に本を借りることができた。小学校の頃とは比べものにならないほどの本で覆われた巨大な部屋の中で。私は貪るように本を読んだ。現代小説家や昭和初期の作家、外国語の翻訳や、美術の解説書。理解はできなかったが、中学生の頭で文字は追える。国語も読書感想文も苦手だった。だから薄っぺらい頭の感覚で読んでいたのだろうと思う。

 

大学になると、夜間大学生の私には昼休みはなかったが、授業を終えた後、時間があれば閉館の22時まで図書室にいた。統計書や栄養学からシェイクスピアまで、スマホがない時代だったので、あらゆる文字が溢れるほどの知識の泉だった。閉館ぎりぎりまで、日中と夜遅くからもバイトに明け暮れた私はその時間は学生でいたくて本を読んで過ごした。

 

本は私の頭をかすめる。そして少しばかりの感触を残したまま、またそこで生きる物としてうごめき始める。本の中の時は止まっているのにどうしてだろう。その本はそのまま生き続け動いていくような気がする。

働き始めてもう20年以上経った今は昔ほど本を読むことがない。飛行機や電車の長距離移動の時だけは本を買っても良いと財布の紐が弛みそれでも悩みながら文庫本を選ぶ。

 

蒼月さんから「ダイナー」という本を借りた。作者自身が書ききったといえるほどの内容を詰め込んだ本だ。ここまで書ける人は素晴らしいと思う。今の私の知識からいって書ける範囲のことは限られているのだが。ダイナーの作者のように今の自分の才能の全てを詰め込んだらどうなるのだろう。

 

ああ私は生ぬるい世界で過ごしていると思うのだ。

受け身でいる世界と、作り出す世界は全く違うと。

誰にも言われないが、気がついていることを。

もう居心地のよい図書室はなくて、巣立った後の鳥はどうするのだろうと想像し。

いつかと思いながら、私は昨日の続きの今日へと向かう。

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「絵」高柳 龍 著

◇ 絵 ◇    「 秘密基地にありしもの 」        

 “なあに水面まで高が50㎝もない滝壺だったのか。これを滝壺と呼んでいいのか、別称が浮かばないのが面映ゆかったが、無性に懐かしかった。あれから10年以上も経って姿を留めているとは”

 もう40年以上も前、つまり大学時代にひょんなことから足を伸ばして幼い頃の遊び場を訪れた際の感懐だった。灌漑水ともなっている川がやがて耕地を離れ細いせせらぎと化し、のんびり原っぱを通って段差のある個所に小さな滝を作っていた。その後直ぐに右に曲がって大きな川に注ぎ込んでいた。当時はさすがに近くまで住宅地が迫っていたところもあったが、川に沿う佇まいにさほどの変化のないのが嬉しくもありもの哀しくもあった。

 

 そこは小学校の1年から3年まで、友だちとしょっちゅう遊んだ秘密基地だったのである。小滝が作る淵さえ深さ30㎝にも満たぬものでそこから流れる小川は深さ20㎝位だったか。

 塩辛蜻蛉や揚羽蝶やらの昆虫に加え、水中生物の捕獲場所でもあったが、それより素足になっての水遊びに興じる所であり、程よい時間で草地に寝転べば格好の休憩場の所ともなった。自分たちだけの秘密基地だったのである。

  そこに最初連れて来てくれたのは小学校に入学して最初の担任のM先生だった。30代ということだったが頭頂が既につるつるで小太りの笑顔の似合う人だった。教室にはメダカや泥鰌、鯰の水槽が置かれ、入学して間もなく餌をあげたり水槽を洗ったりする当番が告げられ、特に鯰には手を焼いたものだった。

 

 生き物が好きだった私を見抜いたのか、夏になってM先生が水棲生物を捕りに行きたくないかと聞いて来た。即、返事をすると「じゃあ、お母さんのお許しを貰いに行くね」と言われて、その日の夕方私の家を訪ねて来た時は、まさかと思っていただけに玄関で応対する母のお尻に隠れていた。

 

 待ち遠しかった。約束の土曜日の来るのが何日間にも感じた。

 当日、言われた通り麦藁帽子と長靴で待っていた僕の前に。同じいで立ちの先生がいた。後ろに駐めた自転車の前の荷台に籐の籠を取り付け、その中にバケツが入っているのを見た。母に挨拶するや後ろに乗れと言う。母も嬉しそうに目を細めていた。先生のお腹に手を回すようにして跨った私は、照れ臭かったけれど大声で行ってきまーすと叫んだ。水田地から森林を抜け到着した所は広大な原っぱだった。勿論その間の道は砂利も含め地面だった。昭和30年代半ばのことで1台の自動車にも擦れ違わなかった。

 その日の楽しかったことははち切れんばかりのもので却ってよく思い出せない。ゲンゴロウタガメ、ヤゴを捉えては生態を教えて貰ったり、長靴の先で川底をグイグイ推し進めて泥の渦巻きから飛び出てくる泥鰌をたも網で救ったりもした。大きな鯰を捕らえるのに先生が尻もちを付き、刹那吃驚した私だったが、先生自身が大笑いするものだから私も腹の捩れるほど笑った。その後二人して滝の横の土手の草原に素足になって寝転んだ。草のベッドはふっくら温かく草いきれがいい匂いだった。太陽光が二人を容赦なく照らし眩しさに閉じた瞼裏も赤く透けていた。

 

 2回目は夏の終わり、私の方からねだるのを制していたせいかも知れない。今度は皆自転車の補助輪が外れていたので友だちのI君とK君も一緒に行っていいかと尋ねた。M先生はちょっと考えて、いいよと言ってからじゃあ4人だけの秘密の場所にしようと言った。何だかドキドキ、ワクワクした。  それから2、3度行き秋となったある日、3人の中で一番積極的なK君がうるさいので意を決して放課後「秘密の滝壺」に行こうと先生に願い出た。その時も先生は少し考えて次のように言った。

 

「先生、今忙しくて一緒に行けないんだ。だから3人一緒なら行ってもいいよ。……但し、掟を守ってくれなければダメだ。守れるかい?」

 勿論、「ハイ」と言った直ぐからK君が掟って何?と聞いた。

「1 絶対に滝壺に飛び込まないこと。 2 滝壺から右へ曲がっていくところからは遠くに行かないこと。 3 みんなで掟を守っているかどうかを互いに見てあげること。……この3つ、だいじょぶ、守れる?」

 

  3人は互いに見つめ合いながらハイと言った。

 

 それから何度遊びに行ったろう。M先生が突然見に来ることもあった。「掟」という言葉は「約束」という響きより強く、絶対だった。結束は嫌が応にも強まったと思う。

 2、3年もなぜか同クラスだったI君とはずうっと仲良しだった。2年から他クラスになったK君は次第に滝壺の仲間から遠ざかったので、その替わりにS君、W君を加えていいかとM先生にお伺いを立てた。そのグループが3年まで持ったのも不思議であればし、別の人が滝壺に来なかったのも信じられなかった。楽しくて堪らぬ自分たちとしては。

 その仲間と別れることになったのは夏休み中に父の転勤で私が引っ越したからである。それからずうっと彼らにも会っていないし、滝壺を訪れたことも無かった。

 けれども、この思い出が形となって残っている物が今も実家の納戸にある。3年生の時、夏休みの宿題で描いた水彩画である。題して「昆虫採集」、四つ切りの紙にI君と私をド・アップにして描いた。捕虫網を草の上から被せてその隙間から殿様バッタを摘まみ出す私を、I君が自分のことのように嬉しい表情で膝をぶつけるようにしゃがむ景である。バックには秘密基地である滝壺と原っぱで飛び跳ねるS君、W君を小さく描き入れた。この絵で市のコンクールで最優秀賞を貰った。

 

 付け加えることがある。この絵はほとんど家で思い出しながら興に乗って描いたもので、完成間近の興奮におやつを取りに立ち上がった時だ、座卓いっぱいに広げていた画用紙の端に膝小僧が当たり、その衝撃が隅に置いてあった水入れを倒し、あろうことか画用紙一面に流れ広がったのだ。慌てて布切れでポンポン叩くようにしたが却って別な色が付き、今度は慌てて新聞紙を数枚束ねたもので覆った。涙が出そうになった。動揺を抑え悔しさを押し殺して、それまでとほぼ同じ時間を掛けて修復を試みたが、全体がぼうっとした印象になってしまった。諦めるよりない、しょうがなく提出した作品だったのだが。

  大学生活に何があったわけでもないが、ふっと訪ねたくなり行ってみれば可愛い自分の幼心を思い出した。人間として大切な純粋さを取り戻せたような気がして悪くないと思えた一日となった。美味しい夕食にありつけた。

 因みにM先生とは40年間、先生が亡くなるまで年賀状だけのお付き合いをした。あまりに照れ臭くて会いに行けなかった。亡くなられた時、先生が編まれた「T市 野の花の手帳」というミニ図鑑を奥様が送ってくださった。


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「絵」蒼月 光 著

平日の昼間。
霧雨の注ぐ音が聞こえそうなほど静まり返った美術館で、絵画を観ていた。

森林展とされただけあって、木や林や森が額縁一杯に描かれた絵ばかりが展示された館内。コンクリートの壁、徹底した温度湿度の調整。人工物で囲まれた部屋にいるはずなのに、いつしか本当に森林浴をしている心持ちになっていた。

 

靴音響かせる度、印象派よりの筆先が描いた重なる葉から零れる光が揺らいで。

大きな木を見上げて立ち止まっては、木部樹液が流れる音が聞こえないかと耳を澄まして。いつのまにか森林浴をした時のように呼吸が深くなっている自分に気が付く。

自分の足音を忘れていく内に、絵画たちに取り込まれたようだ。

 

 

私は巧く絵を描くことができない。

よくフリーハンドで真円を描ける人は絵が巧いというが、まさに、私は円が描けない部類に入る。ぐーるん、と円を描くと何処かしらが歪になってしまうから仕方ない。

けれど、絵画を観るのはなんとも好きだ。芸術の森美術館や近代美術館、それにたまたま行ったフリースペースで展示をしていたら思わず入ってしまうほどには。

 

学生時代は、宗教画や人物画によく目を奪われた。
現代であったら素人でも簡単に画像加工ができるが、まだ写真すら時代、神や天使や悪魔等の目に見えない存在を具現化し、宗教の教えを絵で伝えるという手法は一体どれほどの効果があったのだろう。

ルネッサンス期から時代がおりて、絵画が庶民のものとなった時に登場してくる名もなき市井の人達の日常の姿がモデルの絵となっても「サマ」になっているのは何故だろう。

 

額縁の前に立っては、カタチをしたモノ達へ語り掛けるように視線を合わせる。

何かを答えてくれるわけもないが、背景や隅に転がっているだけにみえる小物たちが言葉の代わりに何かを教えてくれようとする。

埃が射し込む光に照らされて煌めくように、価値があるものと認められ後世にまで残る絵画は時代を易々と越えて、文字ではない表現で多くを伝えてくる。

解説を読んで答え合わせをするのも良いが、何が正解か分からないものがあるのも、また、良い。

 

ただ一つだけ言えるのは、絵描きは無駄な物はキャンパスに入れることはないということ。この当たり前のことに自分で気付くまで、割と時間が掛かってしまったのは、やはり自分には絵の才能はないということなのだろう。

 

そんな私にも小学生の時、写生会があった。

学校敷地内の木や近所の土手からの景色…学年ごとに色々な場所に行ったのを覚えている。その中でも特に円山動物園に行った記憶が特に鮮明に残っている。

はてさて皆で並んで遠足のように行ったのか…その道程は忘れてしまったが、普段家族でお弁当を持って行く時とは違った緊張感で、動物たちと向き合っていたのは覚えている。

 

当時の動物園は旭山動物園のように動物が活発に動く様子が見られる展示方法ではなく、檻の中、ただ気怠い日差しを浴びて寝そべるか、御飯をモグモグ食べている動物たちばかりがそこに居た。

同級生達が描く対象としての人気動物は、象にキリンにライオン…といったあたりだったか。けれど、どうにも私には寝ぼけたようにいる彼らの姿を描く気持ちが湧かなかった。動かない彼らは格好のモデルでは有ったのだが、すでに座り込み、描く体勢に入った大勢の同級生達の様子や、その向かいにいる無造作スタイルの彼らを観ると、どうしても筆を進ませることができなかったのだ。

 

大きな画板を持って順番に動物たちの退屈そうな欠伸を観ながら歩き、檻の並びが終わった所で、ようやく描きたいと思える存在に出会えた。

 

人工池の中で、ピンク色の羽毛をワサワサと動かしながら群れる、フラミンゴだ。

 

緑が深い季節に自然界の中では派手な衣装を身にまとう片足立ちの彼らは、鳥類独特の無表情さで時が流れるままを過ごしていた。

その様子を観た私は、凝る濃い水の匂いに鼻をスンとした後、芝生の上に座り、肩に掛けていた画板を首から下げて用紙をセットした。

 

嘴の先を黒く染めた後は淡桃色の曲線をあまり動かしもせず、片足で立ち止まり続ける彼らは、被写体としては描きやすかった。

いよいよ私は不器用に鉛筆を持つ。

周りの音が無音になって、対象の君と一対一。

大きく輪郭を描いてから、羽の先に視線を移し、なるべく同じになるように白い紙に切り張っていく。なるべく水晶体で吸い取った風景のままを。

 

結局、ポンと肩を叩かれて、お昼だよーと友人が教えてくれるまでピンと張った糸で、彼らと繋がっていた。もう少しで感情が交差するかと思えるほどに。

確か、その日は大雑把な景色の描写だけで一日が終わって、後日、学校で絵の具を使い彩を染めていったと記憶している。

 

緑に覆われた中、波紋の浮かぶ水色の池でピンク色の鳥たちが佇む姿。

描いた絵を観ては、綺麗なピンクのフラミンゴだねー!と言ってくれる人と、なんでフラミンゴにしたの?と疑問も投げかけてくる人が五分五分くらいの割合だった。

後者の人には、なんとなく、としか言えなかったが、絵が巧くない私なりに、それなりの世界が描けたのではないかと自己満足出来た絵だったように覚えている。

 

円山動物園も様々な施設が新設されたりして、私が子供の頃とは大分、様変わりをしていると聞く。今度、天気の良い日に散歩がてら出かけたいと思う。

便利すぎるスマホを握りしめて、あの時観た風景と同じかどうかを確かめに。

 

 

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「絵」御理伊武 著

 小学校の体育館にカーテンのように飾られる絵画コンクール入賞者と学年毎に優秀として大勢の中から選抜された絵は、飾られる子供にとっては勲章なのだと思った。私も絵が得意な友達の名前を見つけては、すごいねと賞賛した。

 

 そんな私の絵も飾られたことがある。

小学校3年生の春先の桜が咲きほこる団地を描いた絵。神経質で少しでも違うことに敏感な私は立木が並ぶ光景や建物の色、団地の番号を間違えないように忠実に描いたつもりだったが、白い紙に先生からのコメントで、木の枝の先が太いのが残念と書かれていた。

 確かに、渾身で書いた絵の木の枝は、先に向かうにつれて太くなっていた。

 か弱い幼心はそこから自信喪失である。

 私は、絵は苦手なものとして、あえて触れない、授業以外では描くことのないものになった。

 

 幼い頃から、絵画は、自宅の古い官舎のコンクリートの壁を飾っていた。友達の家でも小さなピースのジグソーパズルが完成した絵を何枚も額縁に入れて飾っていたり、階段の踊り場に油絵が飾られていたり。各々の家庭で絵は身近なものとして存在していたのだろうと思う。

私が小学生だった昭和の終わり頃、当時、購読していた読売新聞は、有名な絵画のA3位の大きさのポスターを毎週か毎月か覚えてないのだが、届けてくれた。

 

 母は気に入ったものは額縁を買って飾っていた。それに新聞社の特製の深紅色の重厚なファイルもあったので、次々に名画が収集されていた。それから何度か引っ越しをしたのだが、その度に、私は持って行く物として埃をほろい段ボールの中にしまった。

 

 母は、絵が好きで自分で水性画を描いたりもしていたが、私はもう自ら新しい画用紙に向かって書く気もせず、母が描く姿を横目で見つつ、学校の課題だけを息も絶え絶えなほどに何とかこなしていた。私の画材が余ると母は上手く活用して絵を書いて、額縁に入れて家の中に飾っていた。

 

 そして絵が好きな母に誘われて、芸術の森や近代美術館に出かけた。

 全ては、私にも絵が好きになって欲しいという思いもあったのだろうと思う。

 そのほとんどが古い記憶過ぎて忘れているのだけれど。

 その中でも後藤純男氏の絵をじっくりと見たことは覚えているのだ。

 壁一面を使った雪の世界。

 木々に積もる雪と、温かく差し込む薄い日差し、その下には深い渓谷。

 渋い日本画を私は、おそらくいつもと変わらぬ顔で、見ていたのだろうと思う。

 中学生くらいの子供の心の感覚なのだろうと思う。

 すごいとか、素敵だとか、大げさに口にしたり表に表すことは親の前では必要ないと思った。だから感動が薄いとか、優しくないとか言われるのだけれど。

 

 それでも、ずっと見ていたいと思った。景色を描いた絵なのだが、枝の先まで一つ一つ心に止めておかないといけないと思ったのだ。

 絵画はそこでしか出会うことが出来ず、もう二度と会うことがないような気持ちになる。再び出会っていないので、私の判断は正解なのだと思う。今でもぼんやりと目の前のスクリーンに浮かぶ。静寂の中で一筆一筆がそれぞれに意志を持った絵に触れた良い思い出として。

 

 ふと絵筆を持ってみようかと思ったときがある。どんな絵でも額縁に入れば誰かに訴えるような、何かになるような、過ぎた思いで。

 

 丸を三つほどよく置くと、ミッキーマウスの顔のように見える。アトラクションの壁の一部や、売店の飾りや、テーマパークに目立たぬように飾られたそのモチーフを探し見つけ出すことがディズニーランドの常連らしく思われ、SNS映えするらしい。試しにおにぎりを丸く握って並べてみるとそれらしく見える。

 

 しかし、丸を離して並べると人の顔のように認識されて心霊現象ではないかと恐れられたりもする。祖父母の家に泊まりに行ったら部屋の天井の木の染みが人の顔のように思えて、恐ろしく思い、電気が消されたら布団を頭までかぶって眠っていた。

 

子供に人気のアンパンマンも大きな丸の中に頬と鼻を頬の丸を三つ、後は目と眉毛と口を書けば完成する。誰にでも描くこと出来てそれらしく見える。児童館に行けば書き手の職員さんによってほんのミリ単位で違ういろんなアンパンマンに出会えて楽しい。絵が苦手な私も、アンパンマンだけは、「何これ?」とは言われない。

 

 スマートフォンの絵文字の顔も丸くその中の線の傾きで感情を表している。

 私はたまにその丸に線を入れた具合の下手な絵を、メモ用紙の下に書いて一人で楽しんでいる。たまにキャラクターに挑戦して「ぐでたま」というキャクターに似せれば変なタラコみたいになるし、あやふやなままドラえもんを書いたらオバQとの良いとこ取りの何物か分からぬ新しい生物になった。

 

それでも下手は下手なりに良いなあと私は思うのだ。少なくとも人を悲しませるようなことはないだろう。

 

 大学の講義の芸術論で、静物画の中テーブルに置かれた果物一つ一つに意味があると教わった。色鮮やかな林檎は身近な果物で、愛を象徴するという説の一方で、読み取り方によっては誰かを殺してしまうほどの毒を含んでいるかもしれない。

 

 深読みしすぎる私は今は歯医者の椅子の正面に飾られた絵が恐ろしい。

 

 カモメが飛ぶ青い空、穏やかな海、そしてヨットみたいな簡易的な船を描いた絵なのだが。人はいるのだが動きがない。風がなく空気がとまっているような感じがするのだ。

 

 椅子が倒れてからも怖いのに、私はその全体的な空と海の青さに不自然さを覚えて身震いする。

「背中、倒しますよ」優しい声がして、背もたれが倒れる。見上げる天上にも、水色の中にプカプカと雲が浮かぶ空が描かれている。

 

 子供部屋の天上が空のクロスだったら良いなと思ったのは中学生くらいのころか。双方の人工的な不気味さに、私は瞼を瞑る。目を開けてくださいとは言われないので、閉じていることにする。

 

 

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