小説「カレーライス」 御理伊武 著
最後の夕食をカレーライスにしようと言ったのは私と彼とのどちらからでもなく、冷蔵庫に玉葱とにんじんの切れ端とすっかりやわらかくなってしまったじゃがいも、冷凍庫に残った一握りの細切れ肉があったからだ。
同棲していたアパートの一室から私は出て行く。私が買いそろえたものは全て、先の住まいに送ってしまっていて、後はショルダーバックに収まる分の荷物しかない。
台所の戸棚の奥には、いつ買ったのか分からないバーモンドカレー中辛の箱が残されていた。賞味期限は三ヶ月過ぎていたが、おそらく問題なく食べられるだろう。
彼と二人で暮らしていたのに、この部屋では料理はほとんどしなかった。お互いに仕事で忙しく、夕食も会社の中で食べたり、コンビニのお総菜を買ってすませたり、たまに料理をするのは日曜やお互いの休みがあった日に気まぐれでするくらいだったので、冷蔵庫の中はビールや飲み物くらいでほぼ空だった。
「最後の日くらいは、高級フレンチとか、焼き肉とかでも良かったのに。」
と、彼が女々しいことを言って、
「残っている野菜を無駄にしたくないから」
と私が答える。
会話が重視されるフレンチに行って、料理の合間に愛を語ることもないのに。ワインばかり進んで、なんのお祝いもない状況で酔っぱらってどうすればよいのか。焼肉にしても。途中で、なんでこの人と肉を焼いているのだろうと。遺伝子を残す予定が全くない今、原始人から受け継がれたDNAがMUDAと言うだろう。
その言葉には、もうあなたについて一銭も無駄金を使いたくないという裏の意味もあるのだけれど。
別れることになった原因はお互いにあった。彼は自他共に認めるモテ男でその上、来る者拒まずの優しい性格なので、私以外にも中高生から大正生まれの女子まで、幅広く好かれていた。
彼はヒヨコドラックで薬剤師をしており、地元では若くて優しい優男であった。そこで、同年代の女性と、親密な身体的な相談を受けた上で、もっと親密な密着した仲になっても、まあ、その場限りで成り行き上行くしかなければ致し方ないというのが、恋人であった私の広い心の上での見解だ。住んでいる街には、パチンコ屋と、スナック、後は海くらいか。遊ぶ場所がないから、人に依存するのは仕方ないと思った。
私が浮気についても見て見ぬふりをし、彼が二股三股をしてもそれを咎めずにいたので、それがいつまでも続くと彼は思っていたのだろう。
そんなある日、彼の車のダッシュボードから、分厚い封筒を発見した。
昔、八百屋を営んでおり、今は未亡人となった奥山のおばあちゃんからの何十枚にも渡る恋文だ。情緒に溢れ熱を帯びた文章で、何十枚に渡って書き綴られている。私の理解を超えた関係に二人はいることが分かった。
彼はおそらく、ヒヨコドラックの薬剤師として小さな町で安泰で色多き人生を歩んでいくのだろう。私は職場から電車で1時間かかるこの場所にいる必要はないのだ。私が次に住む場所は、木造だけれど、目の前に公園があって、春になれば桜が咲くらしい。
彼を必要としている人がいる。
私はふらふらとしたこの人と一緒にいて、どうなるのか分からなくなる前に、自ら逃げたのだ。
「カレーっていうとさ、小学校の時に炊事遠足に行って作らなかった?」
「作ったよ、飯ごうのお米は焦げ焦げで、カレーはジャバジャバ水っぽいの。」
「美味しかった?」
彼は聞く。
「無理矢理食べたよ。それしかないし。」
「俺は、カレーも焦げてて、焦げがまだらに浮いてるからさ、米だけ食べたよ。」
「初心者のキャンプってそんなものだよね。ところでさ、玉葱、どうする? めちゃくちゃ刻む?」
私は、狭い台所に並ぶ彼に聞く。
「全部刻んだらファミレスとか給食風かな。大きめに切ろうか。」
「じゃあ、おねがい。私は米取ってくるわ。」
家のお米はなぜか、玄関横の物置の中にある。冷暗所といえばここしかないからなのだが。
二合分をプラケースで取り、少しだけ追加する。カレーのお米は、これで水量を二合に合わせるとしゃっきりとしたカレーや寿司飯に合う炊き加減になる。
取ってきたお米を洗い炊飯器にセットする。
だぶん、ここで彼と暮らすことはなくなっても、同じメーカーの炊飯器を買えば、
おそらく、同じ炊きあがりのメロディを聴くのだろう。
その間、彼は玉葱とお肉を炒め始めたところだった。私はにんじんとジャガイモも切り彼に渡す。鍋も調理道具も、付き合い始めて間もない頃に二人で買いそろえたものだ。
その彼のつやつやの頬におそらく、最後のキスをして。
一瞬の間の後にキスを返される。
奥山のおばあちゃんの顔が一瞬よぎるが、彼はケトルで沸かしたお湯を多めに鍋に注いで、後はIHの熱に任せて煮えれば良いだけにする。
「カレーの他になんかいる? ビールしかないからさ」
「サラダと、アイス。せっかくだからハーゲンダッツのクッキーアンドクリーム。」
それじゃあ、買ってくるよと、服を着始める彼を私は、じゃあ、火加減見てる、と言って、送り出す。
炊飯器の炊きあがりの音楽を半分眠りながら聴いて。
全てくたくたに煮えた頃、私はIHの電源を切る。お米は炊きあがってから2hの表示になっていた。カレールーをドボンと入れる。ゆるく固形の茶色が滲んでいく。
テーブルの上には二つのグラスとスプーン。色違いの箸。カレーが来るのを待っている白いカレー用のお皿。それも、もう何年も前に二人で買ったものだ。
私の座る側に鍵を置いておいた。
彼はクッキーアンドクリームを何事もなかったような顔で買ってくると思うのだ。近くのコンビニになかったから、イオンまで行ったよなんて言いながら。
そんなことが何度もあったから、心配はしない。
悪気はなさそうな顔をするから、悪気はないんだよね、そんなところが天然だものねと、私も深く問い詰めないでいたのだ。
バックを持ち、もう、何も忘れ物がないことを確認して、部屋を出る。
鍵は開けたままだ。
家を出たことをLINEしようかと思ったが、既読になりそのまま返信がないのも、返信があればその返事を返すのも、面倒だった。それに、きっぱりと断とうとした思いが、なにかの拍子にぐらついてしまうようで怖かった。
玉葱と肉を炒めた空気が鼻の奥に残っている。
日はすっかり暮れ、秋の夜の空気は冷たい。私はゆっくりと深呼吸して、カレーになる筈だった物の気配を追い出そうとしている。
彼は帰って来たら鍋の火を点けるのだろうか。カチカチともボオッともいわず、ピットいう電子音とともに鍋が熱されて、煮えすぎた具材がカレールーが溶けるよりも早く崩れ始める。木べらで混ぜていくうちに形も何もかも姿をとどめずに。焦がすわけにはいかないのでぐるぐるとかき混ぜる。その手は彼の手だ。その指も手のひらも私は、そのうち忘れてしまうのだろう。
どこからともなくカレーの匂いが漂ってきて、幸せな家庭を想像する。
私はそのまま通り過ぎて、もう来ることはないこの街と風景を記憶に刻みながら、駅まで歩いていく。