八味姉妹の部屋

文芸ユニット。只今、エッセイの勉強中です。

「サカナ」蒼月光 著

まだ開業して間もなくのスカイツリーに登って、地上から約450メートルの高さからの風景を観たことが有る。産まれも育ちも「試される大地」出身の正真正銘田舎者の私。「東京」には、渋谷や新宿等は勿論、浅草等の下町方面にも何度か観光したことがあるのにも関わらず。どうしてもジャングルのごとくビルヂングが立ち並んでいるイメージが凝り固まっていたせいかどうか。日本の首都の姿ウンヌンよりも、隅田川が意外なほど長く大きく伸びやかな姿をしていたことが、その風景の中で一番印象に残っている。

 そして隅田川の行く末遠くを見た、その目が直下を見下ろした時、緑と赤が点灯する度に規則正しく動く人たちが、機械仕掛けの魚の群れのように視えた。

視線の高さのせいなのか、人の多さのせいなのか、道路の構造のせいなのか、理由は多様で重なってさえいるのだろうけれど。改めてこれが「東京」なのだと、理解したものだ。

 

魚が泳ぐ様を観るのが好きだ。

正しくは魚ではないがイルカやペンギンのような哺乳類の水生生物も含めて、生き物が泳ぐ様子を観るのが好きだ。だから、子供の頃からよく水族館や動物園に連れて行ってもらった。

特に小樽水族館は記憶は途切れ途切れながらも、テンションが上がったことだけは確実に覚えている。ひたりと硝子に両手とオデコをつけて、生まれて初めて見る荒唐無稽な深海魚を前に、目をまんまるにして「なんだアレ!?」と驚嘆したような。

それから、イルカやオタリアのショーを見て歓声を上げながら、人以外との生物ともコミュニケーションは可能なのだと知覚したような。大好きな海に面した立地であることも有って、昔の私も今の私も変わらず心擽られる場所の一つとなっている。

 

大きな水槽で、とんでもなく大きなジンベエザメを観たのは大阪の海遊館だった。

分厚く透明なガラスの向こうで、のんびりとゆったりと移動するジンベエザメは、海の広さや深さを教えてくれているようで。

ほんの少しの摩擦で故意の事故や事件が起こすガラス向こうの私達のことを、半眼の相で冷静にみつめ返しているようにもみえた。

 水族館は大抵、薄暗く空調の効いた完全に安全な回廊の中で、魚たちを見ながら、そして見られながら散歩する場所だ。小魚の無数の群れが翻った時の鱗の煌めきや熱帯魚の人工的にすらみえる鮮やかな色彩…。

本当は自分も一緒に水に潜りながら同じ目線で観るのが一番なのだろう。けれど人らしく空気がある中で歩いて隣の世界を覗き見る雰囲気が、私らしい気がするからそうしたままでいる。

 

知人に、水族館が怖いという人がいた。閉所恐怖症に近いものかと思ったら、

途方もない水圧にガラスが負けて、大洪水が起きたらどうする!!」とペペペと唾を飛ばす勢いで熱弁をされた。確かに、ほぼ逃げ場のない狭めの通路が多く、中には攻撃的な水生動物を収監している水槽が無くはないから、100%安全かと言われれば否定はできないが。

ただそこを考えてしまったら、動物園だって植物園だって博物館だって…いや、家に居る時ですら何が起きるか分かったものではなかろうか。

そう思ったものの。

こんな危険予測が思いつく知人に対してより興味が湧いてきてしまったので、特に何も言わずひたすら無味無臭になるように「そうなんだぁ」とただ頷いたものだった。

 

昔、まだ子供の頃。お祭りでポイを使って掬いあげた金魚を水槽で育てていた。すぐ亡くなる弱い命もあったけれど、中には何年も生き続けてくれる逞しい命とも出会えていた。名前こそ付けることはなかったけれど、年々長く伸びていくヒレが揺らめく度、儚げな絹地が風にはためいているように視えて、よく見惚れていた。 

 

ペットは数あれど、金魚が芸をするとは聞いたことはないが、唯一、水槽に人間が近付く時はエサが貰えると学習していたらしい。私が近付くとパクパクとよく動く口を水面近くに出して、何か言葉を発する一瞬前の緊張感をよく醸し出した。エサも食べ終えて満足すると、また水槽深く潜り、右へ左へ浮遊する旅に戻る。

 トントントン。

指先で軽く硬く冷たい水槽を叩くと、ビクリと逃げる反応をするけれど、すぐまた何事も無かったかのように泳ぎ続ける。子供の頃の私は、それが金魚たちとのコミュニケーションだと思い、日に何度か繰り返していたけれど。

彼らからしたら、水で膨張してみえるナニカが、住みかをドンドン揺すってくる厄災にしか感じえなかったのではないかと今更ながらに思い至っている。

 

だとしたら。

水族館で逢える彼らに私たちはどう見えているんだろう。

まして海の中だったら…。

 

哀しいかな世界は弱肉強食の世界でしかないから、一方の命を頂戴してもう一方の命を長らえることで地球上の生物は連綿と命を繋くように出来ている。

 

それでも気まぐれでも

夢の中だけでも

気持ちを通じ合えたら

まだあの金魚たちは長生きしてくれたのかなと思う時がある。

 

それとも愚痴ばかりを聞くハメになったろうか。

パクパクパクとよく動く口からマシンガンのように流れるウタは箱庭での細やかなことか、それとも生命の核心をついたことか。

 

是非一度聴いてみたいものだと、時折、濃い水の匂い漂うアクアショップを覗きに行く私である。

 

 

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「SAKANA」御理伊武 著

水槽からオイゲノールという麻酔薬の入ったバケツへ小さな網を使い、魚を移す。

手のひらほどの大きさの魚は新しい水色の円の中をくるくると自由に何周かした後、

ゆっくりとプクプクと息を吐きながら浮上する。

 

私は、魚が軽く眠った頃を見計らい、白いビニールの手袋をはめた手で魚を引き上げ、

体長を計測する。頭から尾ひれまで二十数センチの若い個体だ。

体長と体重の計測が終わると麻酔が切れる前に、

私はメスを入れる。

 

肛門前からお腹の曲線に沿って切り目を入れ、エラの下まできたら、

エラの上から切っていき、腹部を開けるようにする。

三角形に開けたら、上の部分は尾まで真っ直ぐに、小さな鋏で切り取る。

その際に魚の腹の中心を走る浮き袋を潰さないようにしなくてはならない。

 

通常であれば、先程まで泳いでいた魚の浮き袋は空気を含んで細く膨らんでいる。

解剖で知りたいのはその内側にある生殖腺だ。

 

生殖腺が白く長く発達していれば、雄、それ以外はおそらく雌。

浮き袋が潰れたら縮んで細く白い線となり、ただでさえ小さな個体なので、

生殖腺との判断がつきにくくなってしまう。

 

魚は薬によって仮死状態のまま、冷たい台の上に上がる。

私は開いたお腹の中の浮き袋のふくらみを見つめる。

上司である先生が、その浮き袋の中側を手でめくり生殖腺を確認する。

 

「雄、これも雄、雌、うーんこれは雌。これは雄」

判断に迷う時に先生が少し困ったような顔をする。

水槽のモーターがジーと唸る音をたてている。

魚を飼育している部屋は、殆どが水で覆われ夏も間近なのにひんやりと冷たい

 

また、私は水槽から麻酔薬の入ったバケツへ魚を入れ、

そして眠った頃に引き上げ茶色のペーパータオルの上に乗せる。

 

この時点では生きている。

 

そして、私がお腹を裂く。

 

ここからはだ。

 

三角形に切り開いた体には、きれいな目が閉じることなく宙を見ている。

若く白く銀色に光る体の色は、白いドレスが似合う若い姫君の

瞼に乗せるアイシャドウの煌めきのように思う。

 

今朝まで自由に泳いでいた何も知らない魚の目。

切り取った銀色の三角形の皮膚。

雄と雌、それだけための炎。

16時から始まった実験は長引いて、私の白い手袋は紅く染まる。

木々に覆われ、光が入らない部屋にジーというポンプの音が響く。

時折コポコポと魚と水が跳ねる音。

 

私が体長と体重を読み上げる声が、場違いのように響く。

徐々に自分が切り開かれてしまうような感覚に陥り始める。

吸う息と吐く息が薄くなり、体に入らずに、

ただ私はその中で

必死に息をしようともがく。

 

体を開いた後、尾ひれを切り心臓のポンプ作用を利用し

そこから血液を採取するため麻酔は薄い。

体長の大きな魚は完全に麻酔が効かずに途中で目を覚ます。

台の上で暴れた魚が残した血液が私の頬に跳ね、

体を押さえて実験を続ける二人の白衣に染み込んでいく。

計測の終わった魚はペーパータオルに切り取った破片と共に包まれ、

蓋の付いたゴミ箱へと捨てられる。

 

20代の後半に私は魚の研究施設で助手をしていた。

何百個の卵の状態からふ化を経て、仔魚時代に多くの仲間を失い、稚魚になり。

わずか数えられるほどになるまで育ててきた。

職場では環境や化学物質によるホルモンの変化などを研究していた。

魚は測定の為に育てていたのだが、毎日世話をしていると当然に愛着がわいた。

 

毎日、朝出勤したら、まず飼育室へ行きポンプで水槽の掃除をし、えさを与える。

夜が明けて皆が元気に泳いでいるのを見るとほっとした。

実験の二日前にえさを止める。

私は、普段と同じ様に掃除をした後、最後のえさはいつもよりもわずかに多く与えた。

 

私は子供の頃、バケツの中で金魚を飼っていた。

バケツだったが、六月のお祭りから冬の初めくらいまでは一緒にいたと思う。

しかし、ある日、朝起きて見ると、魚は床に飛び出し、体を横にして死んでいた。

 

それ以降は飼っていなかったのだが、最近、家のTVが壊れて何も見るものがないので

テレビ台に金魚の水槽を置いて飼い始めた。 

二匹の金魚にそれぞれ名前をつける。少しだけ大きな魚と小さな魚。

水槽の周りをくるくると回る。

一匹を追いかけては中断し、下に落ちたえさを探す。

 

生き物がいるとついそっちに気を取られてしまう。

毎日、泳ぐ様子やえさを食べる様子、糞の漁や鱗の状態を

水槽に目が向く度に観察している。

 

食器を洗い終え、蛇口を占めると、音のない部屋にポンプのジーっという音が響く。

 

私は、水で溢れたあの部屋を思い出す。

 

人よりも多くの魚が呼吸する空間。

水と外とを隔てる僅かな水面の層に、多くの空気が溶けている。

魚はエラを広げ、酸素を取り込もうと水面に近付いて口をパクパクさせて泳ぐ。

 

麻酔薬は区分4の毒性だ。

死に至らないまでも、経口については誰も試したことはないだろう。

鍵が必要のない扉。

目分量で減っていく薬。

冷たい台の上に置かれたペーパータオルに横たわる魚。

水分が吸い込まれていく。

 

眠りたいと思った。

魚のように。

眠る先に、私の身体はないかもしれない。

 

そこにあるのは、無なのか、わずかに残る大切な記憶を旅するのか。

誰かの手が見えるが、その手が誰の手か分からない。

瞼に浮かぶ水色は、空の色かバケツの色か分からない。

ただ、ただ、眠たいのだ。

 

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和金

 

祭りのあと

昨日(7/7)の文学フリマにおいて
お越しくださいました皆様、お店を出店した方々、スタッフ一同様

本当にお疲れ様でした。

八味姉妹、初めての出店&販売ということで
始めはキョロキョロソワソワしているだけでしたが
だんだん面白さを見出してきて

あっというまの終了16時を迎えました。

 

色んな方に、実際に手に取ってご覧になって頂ける喜び


生涯初めてお会いする方に自分たちの作品を購入して頂けた嬉しさ


母娘連れの方で、娘さんがお母さんの耳元で欲しいって言ってくれたこと


ポストカードの撮影場所を興味深げに尋ねてくれたこと

どうして写真を撮ってるの?と聞かれて
北海道が好きなんですと答えたら
何処出身なの?と聞かれ、地元だと答えて

お客様と一緒に笑ったこと

 

出店してる方と製本や個展についてお話できたこと
(ろ〇さん、此処をみてたら連絡くださいませ!
 twitterで探すことができませんでした…!)

 

忘れてはいけないこと、沢山ありました。


そして始まる前は「お昼は御蕎麦を食べに行っても良い?」

と言っていた御理伊武も、ナンダカンダとせわしなくなり。

しまいには御握りを買って来てくれて。

並んで食べたのも良い思い出(美味しかった笑)

打ち上げはササヤカに。
疲労困憊の中駆けつけてくれたこれまた学生時代以来の友人と
大通BISSEでソフトクリームを食べながら
結局、学生時代の思い出話に大笑いして。

幸せだったなぁ。
さぁ次は何処をめざそうか、御理伊武。

 

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by 蒼月 光


晴天の彼方に

 

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本日は、観に来ていただき有り難うございます。不慣れな中、周りを密かに偵察しながら、文学フリマに、出展いたしました。

 

時折思い出す、「虹の彼方に」の旋律。

不安な和音もなく、やわらかに流れて進む。

そして、高らかに歌った後はまた、元の旋律へ戻る。

そして、着地する先は、深く眠れる底へ。

 

緊張しながら出展し、人見知りなのか社交的なのか、自分でも、分からず。
この一日を、数年に一度の奇跡と言って良いほど、濃く過ごしました。

 

私が、なぜか惹かれて買った本が、蒼月さんのお知り合いだったりして。

そんな偶然は、かなり嬉しいです。売り上げは、買って頂いた方に感謝のみなので、自腹確定、僅かな売り上げは、次回の本作製費に回します。

 

本日は、ご来店と私達を見守っていただき、本当に有り難うございました(^_^)ゞ 

 

明日は

真駒内の花火の音が、山に近い家の辺りまで響き渡っています。若い頃は花火が好きな振りをしていましたが、花火は何故か、湾岸戦争の、火を思い起こさせるのです。同じ思いをされている方はいますか?

明日は、とうとう文学フリマ当日。

光さんは、遠足前の日みたいと、可愛らしい感想を述べています。私はテレビ塔まで、行ったら地下の大番で蕎麦が食べたい。

ちらっとでも、観に来ていただけたら嬉しいです。
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「旅」御理伊武 著

大きなデイバッグを方に掛け、サコッシュの中にはスマートフォンと、最小限の現金と運転免許証と保険証とカードが入ったミニ財布。

ペタンコ靴を履き、身体をなるべく締め付けない衣類を身にまとう。女らしさといえば纏めた髪からみえるうなじくらいか。

旅行が好きな私は旅行の準備なら朝起きて服を詰めて化粧品を詰めて、胃薬と頭痛薬を詰めて、眼鏡も忘れずに入れて、ビニール袋とチョコレートも詰めて、あっという間に世間から逃亡の準備は完了。

 

さぁ、どこへ行こうか。

もう、若くないから、旅のアバンチュールなんてないよな。誰にも構われず、気は楽だ。おばさんモード全開で最初から向かうのだ。京都に行ってタケノコを買って、わらび餅を食べるもよし、スカイツリーの内部を探索して、頂上に近付くには更に課金してくださいという、田舎者ホイホイを愉しむもよし。

 

しかし、ちょい待てよ。 

私にはトイレが異常に近いという弱点がある。自分探しの旅のはずが、いつもトイレ探しの旅だ。高速に乗ると、パーキングエリアでは必ず、トイレに向かう。止まってはいけない道路の上は本当に恐ろしい。あと160キロ先までトイレがないと言われると、漏らしてはならないという重たいプレッシャーが肩にのしかかる。

電車の場合だって、降りた駅では観光の前に必ず駅のトイレを借り、また乗車の際にもトイレに行く。もしかしたら、トイレにいつもいる女なのだ。もし、手を洗っている時に同じ状況で、二度、会う人がいたら、「また、お会いしましたね」と明るく微笑む自信がある。

 

それは怖いな。

 普段から頻尿という訳ではなく、旅となると、このトイレのタイミングを逃してはならぬと、身体が勝手にシフトチェンジする。一般的に一回の排尿量が200mlくらいらしいので、そこまで溜まるまで、どうか尿意よ鎮まり給え。中年のおばさんが漏らす様子は私だって見たくない。そんな失態を断固、侵してはならないのだ。

 

私は観光地では場内案内図でまず、トイレの位置を確認する。

街を歩いている時は、だいぶ気が楽だ。あちこちで光るコンビニの青や赤や緑の看板の明かりが、私を「いつでも、ここにいるから大丈夫だよ」と癒してくれる。

 

妹尾河童さんの「河童が覗いたトイレまんだら」という本がある。文化人のトイレを、詳細なスケッチとインタビューで紹介する本だ。世の中、変わったトイレがあっても良いんだなぁと生き方さえも考えさせられる。

 

私も、様々なトイレと出会ってきた。

東南アジアを旅していた時に、遺跡でトイレを借りに行った。もちろん多くの外国人観光客が訪れる場所だ。囲いはあるが、穴の上に右足と左足用の木が置かれていた。木の厚さは体重をギリギリ支えられる程度。しかも非常に年季が入っている。一万人達成記念に、バリっと今にも割れそうだ。

 

私は意を決して板へ乗る、ミシッと軋む。
穴は深い、深くて暗くてその先がどうなっているのかさえ分からない。一枚折れても、運動神経が悪い私はバランスを崩し、その下に落ちる可能性大だ。

私は羽のようになった気分で用を足した。根拠は全くないが、私は軽いと思い込むことで、板にかかる負担を少しでも減らすという作戦だ。それが功を奏したのか無事に生還した。

 

同じ国なのに街のホテルのトイレに行った時は、その豪華さに驚いた。まず、床も壁も全面ヒンヤリとしたまだらな白い石。

これは、私でも分かる。大理石だ。「宮殿かッ」とツッコミを入れたくなる豪華さ。ふと見るとトイレの洗面台の横に、ご婦人が立っている。優しく微笑みながら空いているトイレを手で示して教えてくれる。サンキューと御礼を言い、トイレに入った。トイレを出るとまた、ご婦人が微笑みながら蛇口を開いて水を出してくれ、手を拭う紙まで手渡してくれた。

これはおそらく親切ではなく有料サービスだ。気付くのが遅いが、ここはホテルだし宮殿だ。相場は分からないが、とりあえず、一番大きな硬貨を渡す。宮殿の利用料金として適切かは分からないが、立ち去り際に私も彼女も、微笑んでいたからこれで良いのだろう。

 

幼い時に小樽に行った。その時にケーキ屋の店内でレアチーズケーキを食べた。ケーキの味よりも幸せな記憶よりも、覚えているのが、そこのトイレだ。

濃厚な赤いベロアの壁を伝ってトイレのドアを開けると、そこは、だだっ広いお部屋だった。艶やかにニスが光る壁、洗面台の上には大きな兄弟のような鏡。お姫様のトイレとは、まさにこれなのだろうと、少女は確信したのだ。

 

私はドレスの裾を持って進む。

初めましてマドモアゼル。

アン、ドゥ、トロワ、五歩はかかる終着駅。

今もこのお店は「洋菓子の館 小樽本店」から名前を改め、「館ブランシェ」として実在している。過去を巡りに行こうか。目的はケーキではなくトイレだけれども。

 

旅に出るたび、私のトイレ遍歴は増えていく。トイレの思い出は誰にも語ることはなく、なんの役にも立たないが、大切に私だけの胸の中にしまってある。

まだ開けたことのない扉の向こうを、開ける。そこに広がるのはどんな景色なのか。

わくわくと同時にそわそわしながら、ドアを開けるのだ。

 

 

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