八味姉妹の部屋

文芸ユニット。只今、エッセイの勉強中です。

「青」蒼月光 著

毎日触れるもの。

洗顔や歯磨きの後のタオル。
炊き立て御飯とインスタントお味噌汁を啜るためのお箸。
冷蔵庫で冷やした麦茶を飲むグラス。

大体みんな清潔なもの。

そんな中、清潔に保つには困難を極めるものも生活に欠かせなくなっている。その一つがスマホ。雑菌の宝庫だと言われているそれを潔癖症の方はどんな風に取り扱っているのだろうと、時折思う。潔癖症ではない私は時折思うだけですぐまた思考の彼方へ忘れていく徒然ないものでしかないのだけれど。

 

眠る以外の何もしていない時間は、気付けば大体スマホに触れているのを自覚している。手のひらに入るほどの軽く薄く四角い機械はライン等のメール・ゲーム・ショッピング・調べもの等、余りに多岐にわたって利用しているので手慰みという以上に便利に使わせてもらっている。

 

その中でも私はツィッターをよく利用している。

膨大な数の人が日々のあれこれを呟いたり、写真を載せたり、音楽をストリーミングしたり。時には事件事故や災害が起きたら記者のように現場映像を流したり。非常識なことも問題になったりするけれど、大抵の人は常識の範囲内での存在をお互い信じながら利用しているものと思う。不可思議なことにお互いの容姿も顔も本名も知らぬまま。

 

ツィッター世界での人間関係は面白い。日常生活では容姿で相手の印象が大体決まるのにこの世界は言葉遣いが全て。

荒い言葉を使う人であればゴツイ印象が、柔らかく儚い雰囲気の言葉であれば可憐な印象が浮かぶ。言葉から放たれるそのままの印象が受け手の予想する人物像に直結する。勿論、無意識のうちに想像してしまう容姿にも。

 

此処に一人の人がいる。実際にお逢いしたことがないから、容れ物のことは分からないけれど。そういう意味では在るがままで惹かれる人の一人なのだろう。

その人が載せる写真と言葉に魅せられている。周囲に人口の光が無い、夜の水辺風景のはずなのに、薄明るい霧のような青い光が写る景色を朧気に染めている。そして空には星が瞬いて。

心を動いた瞬間の世界を切り取っているのが伝わってくるから、観ている此方も心が動かされるのだろう。

一緒に載せられたポツリポツリと呟かれる言葉は、波紋を起こす露の一滴。直ぐにさざ波が起きて、あっという間にイイネが数百降り注ぐというのも頷ける。

風景写真だけではなく花写真もドラマチックなほど濃く艶めいて咲かせる瞬間を魅せてくれる方だから。これからの季節は紫陽花の写真を、きっと多く載せてくれるはずだと密やかな愉しみにしている。

魅力を最大限に写し撮ってもらえる紫陽花を少し羨ましく想いながら。

 

青という色。

人に対して使う時は余り良い意味がないのに、自然に対して使うと途端に美しいものに変わるのは何故だろう。

空も水辺も植物も、忘れゆくばかりの脳の記憶ばかりに頼るよりもカメラの対象となるものが多い。やはり人は自然なものではないのだろうかと納得してしまいそうになるほどに。

 

ただ、私達には青春という言葉が在る。

春が何故青なのかという理由を調べると中国の陰陽五行思想にまで至る。四季を色に当てはめたら春には青色が当たり、また春は十五歳から二十九歳を表すこともあり、これが転じてこの年齢の時期を青春と言うようになったそうだ。日本の世間としては夏目漱石先生が三四郎という作品で使って以来、浸透した言葉とみられている。

 

一般的には誰もが一度は通る時代となっているが、特に最近は年齢問わず何度か青春を体感している方が多いように思う。スマホで写真を撮りながら散歩するのが趣味の私は、高齢世代の方々がご夫婦やお仲間と笑顔で語らいつつも、ゆっくりと時間を過ごす姿をよく見かける。今この瞬間が人生で一番若い時とは言ったものだ。

 

十代の青春は甘酸っぱいとよく言うけれど、酸いも甘いも嚙み分けた末の青春とはどんな味がするのだろう。

 

此れを執筆している今日は雨の音が朝から途切れない。今年は地元北海道で春から真夏日を観測したり、よさこいソーラン祭期間中につきものの雨に濡れるステージがなかったり。人にとっては過ごしやすいカラリとした日が暫く続いていたが、農作物にとっては恵みの雨になっているのだろうか。

 

水に包まれる青い世界。

一粒落ちるごとに淡い色を放つ無数の花弁が近付くのに懸想する。

結局のところ私は青色が好きなのだ。


by月 光

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青紫陽花