八味姉妹の部屋

文芸ユニット。只今、エッセイの勉強中です。

「水遊び」高柳 龍 著

水遊び今昔                                         

 

 中島公園「鴨々川」、大通公園の噴水(2基あったうちの一つ、今もあるか?)、「さとらんど」の人工巨大水辺(名称知らず)等々、札幌界隈在住のご家庭では子どもが小さい頃何度も訪れた場所ではないだろうか。少し長ずれば手稲の巨大プール施設に連れて行ったろうしし、偶の日曜には足を延ばして蘭島の海水浴場にまで行ったろう。まだ子どもは泳げないし自分もまた同じであるから底まで透いて見える中を泳ぐ小魚を追っていればよかったのだ。あっという間に時間は飛んで行って、子も親も満ち足りたのだ。要は「ちゃぷちゃぷ」ができれば楽しく嬉しいのである。

 

 またそれが目的なれば何も遠くへ行く要も無い。庭にドラム型のビニールプールを設置するので事足りたのだ。部屋で水着に替え一目散に外へ飛び出す。ビニールボールやアヒルの玩具があれば声は裏返ろう。水鉄砲や「ぴょこぴょこ蛙」があろうものなら気も狂わんばかりの奇声を上げよう。 ところで、親も水着になってプールに入って来いと要求された覚えがない、若い父親はふと不思議に思ったのである。ひょっとして与えられたものだけで子ども達には充分だった所為ではないか。それらだけでも遊び足らない。帰るよ、もう止めにしようと声を掛ければ「もっとー」と不満を漏らすが、散々駄々を捏ねて手古摺らせても、暫くすればクタッと寝てしまうのだから。

 

  自分たちの「水遊び」は現代では叱られる対象のものだった。滝川にいた頃、小学校に上がれば親の目の届かぬ遊び場に出かけた。森であったり神社や寺の境内であったり大きな公園だったりした。三輪車や補助輪付きの自転車でちょっと年長の子らの中に入って行ったのである。

 

 「滝壺」と名付けられたのが「水遊び」の場所だった。線路と並行する1m幅の小川に、神社の丘から細流(せせらぎ)が線路を潜って注ぎ込んでいた。傾斜が強くなり小さな飛沫が上がるところがあるので「滝壺」と称していた。服を濡らすと叱られるから下着1枚になってチベタイ、チュベタイなんて言って細流に入る。美しく透明な流れに踝まで浸かり、掌で清水を掬っては相手に浴びせる。小3が年かさで1、2年の合わせて5、6人の知った顔で毎日のように遊ぶ。いつか風呂と化して誰かがもう上がるかと言う。すると皆が次々に細流沿いの草地に上がり腰を下ろす、あるいは寝そべる。濡れたのを乾かすのだ。陽が眩しくて目が開けられない。1年坊主はパンツまで濡れていた。

 また誰かが言う。また入るとしよう。ぞろぞろ続いて、今度は細流から滝壺に落ちる。落ちなくてもいいのだがなぜか皆落ちる。ずぶ濡れだ。小川の方は少しく深い。下が泥なので足でかき回せば途端に足は見えなくなる。ここには鮒がいて泥鰌も泳ぐ。アメリカザリガニもいるし、時には鯰が足首を掠める。カラス貝もあればゲンゴロウやヤゴもいた。1年生は2年に羽交い絞めされるが、いじめではなく保護の為である。自ずとできたルールだ。同方向から足を磨るように進み獲物を追い詰めるか、上下流から挟んで捕まえるか。尤も捕えても魚籠やそれに代わる瓶を用意してもいないから、一体なぜそんなに真剣だったろう。笹舟で競争もしたし、鯰を皆で追い込み狩猟本能を掻き立てたりもした。時折、また温まろうと誰かが叫ぶと、また揃って斜度のある草地にシシャモのように寝転ぶ。草の下の土からジワーッと熱が伝わる。瞼の裏側を赤く透かして陽が熱い。偶には線路の熱したレールに帽子を置きその上から耳を当てる。熱さと一緒に振動音がすれば列車が来るのだ。遠くに列車を認めると誰かが川に入るぞと叫ぶ。入らず草に伏せる者もいる。ともかく運転手から姿を隠したつもりでいるのだ。

 

 毎日が楽しかった。遊び道具など無くてもいろんな遊びを工夫した。滝壺でなくとも森や林で基地を作って遊んだ。弓矢やパチンコも自分で拵えた。10名も集まれば、鬼ごっこやかくれんぼをしているうちに夕刻になった。かくれんぼは場所を選ばない、鬼次第で隠れる範囲は拡大する。

 

 ここまで書いて男同士の遊びであったことに気付く。ジェンダージェンダーでは語れない。偶には女の子も混じえることもあったが、やはり稀だったろう。

 球技や水泳などはまだ無理な頃の遊びである。「太陽の子」とか「海の子」などという言葉が輝いていた。子どもは外で遊べと言われた時代だった。もやしっ子は否定された。肘や膝小僧に赤チンキの緑光していた時代である。そんな遊びは今の子供たちに魅力が無いだろうか。

 

 

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