八味姉妹の部屋

文芸ユニット。只今、エッセイの勉強中です。

「じょっぴんかる」高柳 龍 著

◇じょっぴんかる◇ 「己を出すことから」                                 高柳 龍

 昔から犬派であったのは、私が普通以上に男女の違いを意識する子どもであったことも理由にあったろう。男は犬好きで女は猫を可愛がる。厳寒の雪中でも堪える意識も無く犬とじゃれ合う男の子、片や耐寒力弱く家中にいて炬燵と子猫の温みでうとうとする可愛らしい女の子。

 その犬好きに変化が来したのは大学時代。散歩を喜ぶ犬が飼い主より先んじながらも終始振り返り見上げる姿を情けないと見た。嘗てはその従順さに好感を持っていたのに。卑屈な隷従に見えたのだった。クーンと愛くるしく主人に甘える表情も、(孰れに難があるかを問わず)散歩の途中で抱きかかえられて満足している顔も、ましてや不様な姿勢で用便したのを飼い主が屈んで拾う傍らで素知らぬふうを呈するとは。引き替えて、人間の情感など無視するように背筋を伸ばして世を睥睨する猫に気高さを覚えたのだった。犬は人に付き猫は家に付くという古言も思い合わされ、今さら猫派を名乗りはしないけれど、一旦見方が変われば益々そう見えてしまうのだから怖い。感じ方、考え方が相違すれば同一の事物でも全く異なる風に見えるのは真理というものだろう。

 インスタントのラーメンでも見方は様々だ。私が袋入りに拘るのは、カップ麺では調理の要素が無いからだ。では、少しでも調理しているのだと思いたがるのは何ゆえか。あまりに手を抜く人間性が世間的では評価されぬからだろうか。否、自分なりの工夫でオリジナルの味が楽しめるからである。何をトッピングするかで変身もあり得ようし、葱を刻んで入れるだけで本物らしくなる。何の添加無しでも、沸騰した湯を掛けるだけのカップ麺とは違い、コンロの火加減一つで味は変わるし、プラのスプーンで食するよりマイ箸で啜るだけでも気持ちが違って来よう。つまりは自分本位で食行為をしているという自覚が持てるのだ。遠くより眺めれば、それが自己を見失うこと無く自身を生きていると映る筈である。世事や時流に合わせているだけでは駄目だ。主体的に生きねばならぬと、真摯深刻に思うようになったからではないか。

 アイデンティティに目覚めた時、人は自立する。その方法として他人との比較に優るものはあるまい。同調協調の肝要は知悉しているだけに個性の発揚は露わには出さず、それだけ根の深いものとなることで己は確立していくものだ。

 「岡山では女の子も『わし』って言うの?」「『なまら』って北海道弁でしょ」「京都の男の子は女の子でもきまり悪いような京言葉を使うのよ」「大阪人はお国言葉に誇りを持っているから英語だって大阪弁なんだぜ」「沖縄の言葉は分からない語がたくさんあるけど青森弁も対だねえ」例は永遠に尽きることは無かった。

 折しも亥年選挙、まずは参議員選があった。投票率は50%を切る惨憺さ。あらゆることに他を受け入れながらの自己主張をしていくことが大事ではなかろうか。

 標準語使用を基本とする東京人より方言を持っている地方人の方がお喋りの中心にいられたように思う。自分たちが使わなくなっているだけに新鮮に思え、自分の基盤に層の厚い文化があることを「方言」からだけでも感得することができたように思う。

 「いつまでもダハンコイてたって買っちゃらんぞ」「ちゃんとジョッピンカッて来た?」「係長は酒入るとゴンボホルからなあ」「あんまりカッチャクと痕が残るぞ」「あずましくないこと言わんで」……昔の北海道弁の数々である。私は方言のあまり使われぬ環境にいたのだろう、ほとんどが聞きに歩いたり書物で調べたものである。それより標準語だと思っていたのが違った例を挙げる方が面白かろう。

 小学生と草野球をしてやって目に砂粒が入って真っ赤になった。眼科に行って医者が「どうしました?」と言うのへ、「砂だと思うんですが、イズイんです」と応じると「どういう意味ですか」と来た。即座に此方は理解して説明序に「標準語では何と言うんですか」と尋ねるとその中年医師、暫く考えて「ピタリと表す語はないですね。目がゴロゴロするってのがいいところかな?」と。

 これもやはり医者相手。風邪を悪化させて内科に行った。どうしたと聞かれ「熱も高くコワイんです」と言うと「何が怖いのです?」と、30半ばの医者だった。

 最後にもう一つ。明治開拓期に他県からやってきた方言が根付いたものが多い北海道方言だが、これもそうだろうか。

 雪深い朝、小学生は雪を漕いで学校に行った。履いていた手袋で雪を掻くようにハッチャキコイて。

 

f:id:hachimisisters:20190211105414j:plain