八味姉妹の部屋

文芸ユニット。只今、エッセイの勉強中です。

「夏服」高柳 龍 著

歓喜雀躍の半ズボン                                                 

 

 服のことなど母親に任せておけばよい、細かいことに拘らぬが男なのだと思っていた世代は、昭和30年代前半生まれくらいまでであったか。とは言え、自分の好まぬ物を着せられては溜まったものじゃなく、断固、拒絶することもあった。だが、男色、女色という言葉があった時代にも、女親という人種にはどういう訳か、一度は赤く可愛い服を着せたがる御仁がいた。

私の場合は小四の時だったかにその襲来を受け、涙を流してまで拒んだものだった。けれども時代が変われば男も女色の物を着用するようになり、男子校入学を機に親元を離れ寮生活を始めた際、毎月送られてくる荷の中にの三色同じ柄のVネックセーターが入っていた。さすがに最初は青色を選び、次いで黄色を着て、暫くの間を置いてから些か勇気を振るって初めて赤色を着て登校した時は素知らぬ態の底に面はゆさを潜めていた。それでも、友人から「似合ってるじゃん」などと言われれば嬉しくなったのだから所詮そんな程度だったのだが、「そのセーター、同じのが三色あるんだね」との某の言、また別の輩の次の歌が聞こえては心に吹き上がった赤面が表にも出ちまったかも知れぬ。

 ♪~赤・青・黄色の衣装を着けた天道虫が踊り出す サンバに合わせて踊り出す~♪

 グッと堪えて何気ないふうを装っても、その後は間違っても連続して着ることは無かったし、赤色のは二度と着なかった

 

 長男坊だったことも手伝って、自分の好む物を着せてくれる母親に安心して任せていただけに、逆風の思い出は鮮やかに記憶されているのだろう。

  そういう意味で、小5から高1くらいまでは着る物について何度か抵抗したことがある。昭和40年代前半に相当する(如何にしても大昔の話になりぬ。許可頂かざれば老頭児は先に進むることかなはず。我も得意になりて認め居らず、忝なし)。

 

  それは「股引」なる代物のことに外ならず。……おっと古語の魔力に嵌ってしまった、失敬(「失敬」など今日聞くことがあるだろうか)。冬服の装いはセーターに長ズボン、夏になればシャツに半ズボンが定番だった。

その長ズボンの下には股引を穿くよう強要されたのだ。それが厚い物なれば当然ソックスまで厚手のものとなる。それが何が何でも嫌だった。脚を股引で固めその上からズボンで更に巻き締めると言ったら分かって頂けようか。足枷を嵌められ自由を奪われた不愉快さを覚えたのである。タイツなどという繊細なものに取って代わったのはいつ頃だったろう。

ともかく中学からは断固拒んだ。野暮ったさそのものに思えた。いかした男(「いかれた」ではない)のすることじゃないと思った。下着の上に直に長ズボンを穿いたのである。母親は穿かねば大きくなってリウマチになるよと脅した(カタカナ語の傷病名には妙な怖さがあったものだ。風邪よりインフルエンザ、物貰いよりはトラコーマ、腫れ物よりはジンマシンの方が。ジンマシンが蕁麻疹であるのを知ったのは高校に入ってからだった)。「お父さんは夏だってズボンの下にすててこを履いてるのよ」と根拠のあるような無いようなことを言って追い打ちを掛けた。厳寒期であれ吹き荒ぶ寒風にズボンをはためかせて堪えた。これぞ男子という気概だったのだろう。

 親の強制に従い股引を穿いていた小5、6の頃は、半ズボンの穿ける日をどんなに待ち望んだものか。当時のそれは短ければ短いほど都会的で格好良いとされた。今の七分もあるような物は田舎臭く思えた。東京からの転校生は下のブリーフが見えそうなほど短い物を穿いていて(「鉄人28号」の正太郎少年のようにイカしていた)、母に2センチほど裾上げしてと強請ったこともあった。猿股なんぞ履いていたら下着丸出しの恥ずかしい出で立ちとなるのだから、誰がいち早く半ズボンに切り替えるか、口には出さぬ男子の競争であった。北国の春は如何せん、肌寒いから半ズボンの下には長靴下を履かねばならない。場合によればその下に股引を穿けと言われる奴もいた。それは敗北である。ならばまだ長ズボンで通す方がいい。微妙な闘いだった訳である。

 長靴下を脱ぎ素足で半ズボンとなった日はもう不思議なほど躰が軽かった(勿論、ソックスは履いている。足首までのズックから見えるそれは、眩しく見えたはずだ。小3まではゴムの短靴を履いていたのでもろに素足になるのが夏の徴であった)。まさかスキップまではしなかったろうが、まるで飛び跳ねながら通学したものである。夏服解禁の喜びである。自由、解放に繫がる歓喜であった。

f:id:hachimisisters:20190822011403j:plain