八味姉妹の部屋

文芸ユニット。只今、エッセイの勉強中です。

「雨」高柳 龍 著

「雨に濡れるこころ」                                             

 

 小降りの雨が陽射しに映える。さすがに濡れるだろうからと愛用の大傘を先程から差している。

 昨夜はゼミの仲間と浴びるほど飲んだ。元々酒精に弱く途中で正気は吹っ飛んだ。依然、酔いが頭に渦巻いている。日曜日だが偶には独りのんびりと好きな本を眺めて過ごすのもいいかと考えた。県立図書館までは40分ほど歩けばいい。財布を腰ポケットに入れ、傘だけを手にアパートを出たのだ。

 雨が次第に大粒となり遠景を霞ませた。おふくろの送ってくれた大傘は雨粒を弾く音が小気味よい。住宅街の舗装路にも水溜まりが出来て跨いだり飛び越えたりした。

 

 戻ろうかとも考えた。だが帰っても何にもする気は起こるまい。勉強は愚か、友人を訪ねて遊ぶことすら魅力を感じない。疲れているのかと自問してみた。いいやと気怠く自答した。

驟雨と言うのか。家を出た時は眩しいほどの陽射しだった。普段は信の無い予報を気にしてやって、注文通りぱらついたのだからにんまりした。が、曇り空の上にはきっと晴れ間があると信じている。

 

 最近、何となく不調だった。萎えている感じを容易に払拭できない。前夜の酔態もその延長でしかなかったと悔いる。前期の試験が終わって気が脱けたと簡単に結論付けるわけには行かぬと思った。

 本降りとなった。遠景どころじゃない、近景も雨脚の激しさに白っぽい。

 雨音のシャワーを傘で受け止める。ひときわ大きな音を後ろに捉え、振り向いた時には車が迫っていた。チッ、たくさんの水溜まりに覆われた道だが、それでも除けてやらねばならぬことが面白くなかった。右側に水溜まりを超えて退いた。通り過ぎざま窓が開く。何だ? この雨の中で窓を開けるなんて尋常じゃない。思わず睨んだかも知れない。

「乗りませんかぁ」

 何なんだ? 意外な近さで若い男が声をかけて来た。思わず傘をそちらに向けたら大水が流れ出し、慌てて後方に上げた。期せずして傘が車との間に空間を築いた。銀鼠のライトバンを徐行させながら相手は顔を覗かせて言った。

「乗りませんかーッ。送りますよぉ」

「送るったって、僕の行き先も知らないのに……」

「この雨ですもの、お気遣い無く。私も日曜で暇ですからぁ」

 あまりの胡散臭さに一刻も早く逃れるべきと身を引いた。が、絡みつくズボンの裾を蹴るように足を速めた僕に、車はぴったり寄り添って来るのだ。

「実は…ちょっといい話もあるんですよ。それで……」

 来た来た、これだ。こんな誘いに乗って馬鹿を見る人間が実に多いのだ。

 雨脚が更に激しくなった。大傘でも下半身は既にずぶ濡れだった。道のりの半分も来ていない、……とても図書館に行くどころじゃないと思った。

 そんなことを考えている間も男は親切そうな声を発し続けた。

「とにかく乗って下さいよ。ズブ濡れじゃないですか」

 悪人には見えない。日曜というのに紺スーツを着ている。話だけ聞いてやるか、うまく行けばアパ-トまで送って貰えるかも。小狡い考えが頭を過ぎった。

 途端、その瞬時の変容をプロは見遁す筈はなかった。

「どうぞ。早く、早く。乗ってくれなくちゃ話もできませんから」

 と片手を延ばして器用に後部ドアを開けてくれた。シートが濡れてしまうのに恐縮した。

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 短篇の書き出しとして書いてみた。雨は人を閉じ込める。いかな大きな傘であれ、大降りとなれば全てが濡れそぼつ。それを喜べるのは幼い頃だけである。でも必ず叱られた。大人は直ぐにも家に帰りたくなるものだ。ましてや「僕」はこの時、精神的にも曇天や雨天であったのだから、もう最悪である。心が脆くなるのを誰が抑えられよう。後の筋はこうなる予定だ。

 

「僕」はかくして魔の手に捉えられる。停車したまま後ろに向きを変えて、青山のブティックに勤めていると名告った男は、開口一番「僕」の服サイズを言い当てる。「そう思いながら少し前から見ていたんです。……痩せて背の高い人は腕の長さから言っても吊しではまず合う物はないでしょ」と。図星だった。大きめの傘を送ってくれた母親も服を購入する際はついぼやいてしまうのだった。

「実はセール販売で出張していたんですけど、大きめの物って意外に売れ残りが出るんですよね」

 男は心持ち「僕」の方に近づき、釣られて「僕」も腰を前に動かしてしまう。

「ここだけの話です。君のサイズのブレザーがそこに5着あるんですよ。みんな違う柄だし安く買って頂けないかと。月末に残してしまうより、安くしてでもはける方が私には嬉しいんです。○○という英国ブランド、知ってるでしょ。ちょっと段ボール箱を開けて裏地のタグを見てください」

 言われる儘に「僕」は確かめる。それらしい刺繍が見て取れた。雨に降り込められた密室のムードは既に公明正大さを失していた。直ちに箱を閉じたのは既に罪意識の共有が成立していたからだろう。「気に入らぬ柄があっても全部で5万円ならどうです? お母さん孝行にもなるんじゃないですか?私も勤務評定でポイントを稼げるし、君を送ってあげてもまだ夕方のデートに間に合うし……、久し振りの日曜なもんですから」

 もう「僕」は雁字搦めになっている。話の合間合間に心擽るような話題を男は忘れない、「僕」の故郷を聞き、そこは修学旅行で訪れて感激したことを伝える、それも具体例を挙げて。好みの音楽ジャンルを聞き、歌手名も聞いた上で、自分も好きなこと、この曲あの歌の良さを事細かく論じる。勿論「僕」の言うことに耳を傾け賛同するのも実に巧みだった。

 結果、「僕」はアパートに送って貰い、中身を確認する間もなく箱を抱えて雨中に飛び出し外階段を上がる。机奥の仕送り金に腰の財布の数千円を補ってそそくさと車に戻る。心の置けぬ共謀者との意識が、それに相応する土砂降りの雨を背景に、窓から手を振ってエンジンを吹かし去る車に向けて、「僕」は手を振って見送ってしまうのだった。

 さて、心時めかせて箱を開ければ、上のブレザー以外は粗末な製品ばかりで、しかも全てがつんつるてん。以来、雨が降ると自分が情けなくなる「僕」である、という構想を得たが、どうだろう、雨をこんなふうに扱うのは。昨日(8月31日)も昼時大雨が短時間降った。その前後がもろ残暑の天気だっただけに吃驚したが、恰度その時、庭作業をしていて数十年ぶりにしこたま濡れた。この世のあらゆるものが辛く当たる、そんな年齢になったのだと熟々思った。

 

 

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