八味姉妹の部屋

文芸ユニット。只今、エッセイの勉強中です。

「映画」御理伊武 著

人生初の映画はドラえもんだ。

のび太の魔界大冒険」かつて札幌市中央区2条西5丁目にあった、東映に家族でドラえもんを見に向かった。日曜日で満員御礼、立ち見大歓迎。ラッシュ時のような人の混雑の中、通路にも人がいっぱいで、ぎゅうぎゅう詰め。 

 

私達家族は他の人もしていたのと同じように通路の階段に新聞紙を敷いて座り、映画を見た。映画の内容は覚えていない。ただ、小さな子供が立っているのに平然と座る大人が大勢いること、立ち見でも席に座っていても同じ金額だということ。そして人の影で画面がろくに見られないこの状況に腹が立ち、通路の端に光るオレンジの足下を照らす明かりと、赤い通路の階段、人々が落として散らかったままのポップコーンの白い残骸を見つめていた。

 

当時は入れ替え制ではなく、上映中に入場することができた。だから、途中から終わりまで見て、また、最初から途中まで見て、その場面が終わったら出る。でも最後までまた見ても良い。途中で出るのもありなので、途中から映画館へ入ったときは、退席する人を待って席に座った。今は途中から映画館をみるなんて、想像できないと思う。入れ替えではないから、チケットを買えば、一日中、映画を見続けていられた。そんな文化人のような経験をしたかったのだけれど、大人になる前に、総入れ替え制に変わってしまったのは残念だ。

 

小学校3年生の時に、担任の先生が放課後に映画を見に行く機会をつくってくれて、クラスの数人と先生とで見に行った。その場所は今でも狸小路にある東宝プラザだ。今は名称が変わり、札幌プラザ2・5となっている。

 

その時に見たのは「ケニー」という腰から下の身体がない障害を持った実在の少年が出演している自身の身の回りについて描いた、ほぼノンフィクションの映画だ。子供ながらにその姿に衝撃を受けたのだが、身体の不自由さを生まれ持った本人は気にせずに、移動手段であるスケートボードをぐんぐん勢いよく走らせ巧みに操る。その姿は、同年代の若者以上で格好が良かった

 

ストーリーは思い出せないが、今でもケニー少年の両手を自由に動かして、活発に動く姿を覚えている。若い少年がやたらと走るように彼も思いのままに、両手で自由自在不自由なんて言葉すら存在にしないように生きているのだ。

 

家庭のある若い女性の先生がどうして、放課後にわざわざ生徒を引率してくれたのか、分からない。竹製の1メートル定規を持って背中やおしりをたたくのが体罰ではなく、通常の躾だった頃だ。夕方から集まって夜に帰ることは、小学生には大冒険だった。クラスのどの人と行ったのかは覚えていないが、2階から降りる急な階段を自分も後ろの人にも気をつけながら振り向き見た光景だけは覚えているのだ。

 

中学生、高校生の時には友達とスガイディノスへ映画を見に行った。どんなに感動する話でも、涙は出ず、面白かったねーと言って、下のゲームセンターでプリクラを撮った。

大学時代は、映画好きの集まるサークルに入り、皆で夕張国際映画祭へ行き、夜通し映画を映している会場を観て回り、閉校となった校舎を利用した宿泊所で雑魚寝をした。

 

映画を観る日は、映画がメインになってしまい、他は全て映画を観るためのオマケに思えてしまう。二時間腰掛けて、スクリーンに集中する。身体を動かさずにいたから、ぼんやりを手のひらがむくんでいる感覚を感じながら、椅子に沈み込んでいた身体を起こし、ゆっくり立ち上がる。夜までは時間があるから、時間をもてあまして、ロッテリアでシェークを飲んだり、雑貨屋をぷらぷらと見て回ったのだと思うが、頭の中が映画の内容で占領されていて、何をしていたのか思い出せない。

 

日常から離れた特別な場所が映画館だ。

そこで観るのは起きていても観ることができる夢のようなものか。

 

かつて、ドラえもんの映画を観に行きたかった私のように、私は子供のために長期の休みの度に映画を見に行く手数を整える。

今はeチケットという前売り券をコンビニで買い、ネットから行きたい会場と日付と時間を選び、座席を指定する。一度決定してしまえば、取り消しは出来ないのだが、行って満員で入ることができるなんてことはなく、ゆったりと映画館へ行って、事前に決めた席に座ることができる。

そして、前売りで少しだけ安く入った分もあり、ついつい、バケツみたいな大きな容器に入ったポップコーンを買ってしまう。スーパーで買うよりも数倍高いし、食べるとお昼ご飯や夕食を食べる前にお腹がいっぱいになってしまうと思うのだが、ついつい甘いキャラメルの香りに誘われて、今日だけは特別だよと、半分は自分に言い訳をしながら買ってしまうのだ。

 

事前に予約する席は、前が通路になった中段真ん中の席がベストだ。

トイレにすぐに行けるし、前に人がいないので視界が開けているのがいい。

 

狭くて、前が見えなかった子供時代の私とは全く違う状況で映画を観ている子供達は、かつての子供時代に観た映画をどのように振り返るのだろう。映画の内容よりも、ポップコーンを大量に食べた思い出だとしたらため息が出る。

 

すっかり、歳のせいか涙もろくなった私は、ドラえもんのオープニングの歌の時点で泣けてしまう。そして人の影で、前が塞がれた状況でも、同じようにドラえもんの映像を目で追っていたことを思い出す。

 

ポップコーンのガサガサボリボリという音を聞きながら。

私は、キャラクターの描かれたハンドタオルでこっそりと一人涙を拭う

 

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「映画」蒼月 光 著

 学生時代、履修科目でフランス語を学ぼうと選択した。

義務教育から散々教え込まれてもしっくりこない英語への反発か、見知らぬ言語への単なる興味だったか、今となっては選択した理由はトンと忘れてしまったが。

担当教授は肩までの長さの真っ黒い髪をソバージュにして、眼鏡にキラキラ煌めくグラスチェーンを付けた、今にも「ザマス」という語尾を使いそうな女性だった。純日本人でありながら、フランスという国の気質が滲み出ているような第一印象を覚えている。

 大学はカトリック系だったため、穏やかなシスターが教壇に立つのことも日常だったが、その中で、華奢な体に似合わず、ビジバシと体育会系な授業を進める熱血的な彼女は異質とも言えた。

 「もっと学ぶ意欲をもちなさい」「何故こんなことも分からないの、もっと考える!」義務教育をとうに過ぎた20歳前後の女生徒達に注ぎ込む情熱の嵐。そもそも私同様、興味本位で、初めて触れた言語でもある人がほとんどであろう中、その勢いにのけ反るか、うつ伏せになるかの生徒が多かった。
 それでも、毎回数分間有った、日本とフランスの文化の違いを雑談として聞かせてくれる話は興味深く面白いもので、その時ばかりは皆、前のめりになった。教授は、雑談は好きね、と皮肉を言いながらも悪い顔はせず、色々な話を分かりやすく教えてくれた。内容は残念ながら、授業の内容と共に、殆ど忘却の彼方に飛んで行ってしまったが、フランス女性のおしゃれな生き方は学ぶべきであると、何度も繰り返し聞いた事だけは覚えている。

 そんな中、「今日はフランスの古典映画を見ます」とDVDを取り出して、小さなスクリーンに映し、授業まるまる上映会となったことがあった。

 字幕があったがサイレント映画ではない、モノクロの古い映画だった。

 お金持ち風のお嬢さんが、戦争から帰ってくる婚約者を待つ間に起こる騒動…のようなストーリーだったと思う。残念ながら授業時間内に終わることなく、途中で切り上げとなってしまったが、割と面白く観ていたと記憶している。

 

当時、流行りの映画というとハリウッドのアクション映画が主流だった。

正義の名の元、ドガーンバカーンと爆発させては傷だらけの主人公とヒロインがハグして、スタッフロールが流れる映画ばかりが上映されていた。

SFXやアクションの迫力による面白さは認めるが、さすがに食傷気味になっていた私は、気になる映画上映が有れば、地元にある映画館シアターキノに行って、あまり大々的に上映していない映画を観る程度には映画が好きだった。

 設立当時のシアターキノは日本一小さな映画館として有名(現在は移転して少し規模が広がっている)な映画好きの人達の匂いが漂う、小さくとも立派な映画館だ。移転前にも2.3度行った事があるが、飛行機の座席に似て座席の傾斜もない昔ながらの「映画館」を体現したような場所だった。
 

 踏めば木の軋む音がなるような古びた校舎の片隅の教室で観るのも雰囲気があって良かったが、授業でフランス映画を鑑賞した時にはこのシアターキノのようなコジンマリとした映画館で観てみたいと思った。

 映画好きしか来ないから、電源を切り忘れた携帯電話の着信音も、ガサガサとお菓子を漁る音も、小さいと思っているだけの妖怪小声モドキも何もない、自分の家で観ている延長線上のようなこの映画館で、ドップリと浸かりながら観てみたい、と。

 

 モノクロ映画当時のフランスの通俗がどういうものか不勉強ながらも、ヒロインが着ているワンピースより豪華でドレスより少し軽装な洋服、次々と現れる登場人物達の洒脱のある会話、セリフに合わせて響く靴の足音が創り上げていく日常。フランス映画といえば、リュックベッソン監督くらいしか思いつかない不勉強な私には、御伽噺を観ているのに似て新鮮な驚きが有った。

 

 「年々、日本の女の子たちの品が下がってきているように感じられるわ、品を大事になさい」いつも凛々しくスーツを着こなしていたソバージュ教授は、カツカツと教壇の幅一杯にヒールを鳴らして言っていた。授業を重ねる度、まだいもしない姑の幻影をみているような気になったのは私だけではなかったはずだ。

 確かに、あの映画に出てきた女性たちがフランスでの一般的な女性の振る舞いをしていたのならその通りであろう。けれど、邦画を観る限り、そうだと言い切れるのだろうかと疑問も浮かんだものだった。

 

 西洋の女性がワンピース以上のボリュームのあるスカートを普段着にしていた頃、日本での普段着は着物だった。時代劇物の邦画を観ると、あの時代の女性達は指の自由がない足袋と草履や雪駄で、歩幅の稼げない着物の裾をさばきながら静々と歩く。どこかに座るにしても帯を気にしながら楚々と腰掛け、物を取るにも袂の袖も乱れないように最小限の手さばきを要求される。

 ただし、それは、お城のお姫様や大店のお嬢様役の身のこなし方だ。

 城下町のよくあるお茶屋の小町ちゃんになると動きやすさ重視で働きやすい着物の着付け方をしているようにみえる。あくまで映像世界でのフィクションが含まれているとはいえ、実際、そこまで離れた表現でもないと思う。

 あの時、先生は、何処に居た女の子達の何を観て「品が下がってきている」と盛大なため息をついたのだろう。いつの時代にも繰り返される言葉は有るのかなと、国文科の生徒として気付かされた授業でもあった。

 

 

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「夏服」高柳 龍 著

歓喜雀躍の半ズボン                                                 

 

 服のことなど母親に任せておけばよい、細かいことに拘らぬが男なのだと思っていた世代は、昭和30年代前半生まれくらいまでであったか。とは言え、自分の好まぬ物を着せられては溜まったものじゃなく、断固、拒絶することもあった。だが、男色、女色という言葉があった時代にも、女親という人種にはどういう訳か、一度は赤く可愛い服を着せたがる御仁がいた。

私の場合は小四の時だったかにその襲来を受け、涙を流してまで拒んだものだった。けれども時代が変われば男も女色の物を着用するようになり、男子校入学を機に親元を離れ寮生活を始めた際、毎月送られてくる荷の中にの三色同じ柄のVネックセーターが入っていた。さすがに最初は青色を選び、次いで黄色を着て、暫くの間を置いてから些か勇気を振るって初めて赤色を着て登校した時は素知らぬ態の底に面はゆさを潜めていた。それでも、友人から「似合ってるじゃん」などと言われれば嬉しくなったのだから所詮そんな程度だったのだが、「そのセーター、同じのが三色あるんだね」との某の言、また別の輩の次の歌が聞こえては心に吹き上がった赤面が表にも出ちまったかも知れぬ。

 ♪~赤・青・黄色の衣装を着けた天道虫が踊り出す サンバに合わせて踊り出す~♪

 グッと堪えて何気ないふうを装っても、その後は間違っても連続して着ることは無かったし、赤色のは二度と着なかった

 

 長男坊だったことも手伝って、自分の好む物を着せてくれる母親に安心して任せていただけに、逆風の思い出は鮮やかに記憶されているのだろう。

  そういう意味で、小5から高1くらいまでは着る物について何度か抵抗したことがある。昭和40年代前半に相当する(如何にしても大昔の話になりぬ。許可頂かざれば老頭児は先に進むることかなはず。我も得意になりて認め居らず、忝なし)。

 

  それは「股引」なる代物のことに外ならず。……おっと古語の魔力に嵌ってしまった、失敬(「失敬」など今日聞くことがあるだろうか)。冬服の装いはセーターに長ズボン、夏になればシャツに半ズボンが定番だった。

その長ズボンの下には股引を穿くよう強要されたのだ。それが厚い物なれば当然ソックスまで厚手のものとなる。それが何が何でも嫌だった。脚を股引で固めその上からズボンで更に巻き締めると言ったら分かって頂けようか。足枷を嵌められ自由を奪われた不愉快さを覚えたのである。タイツなどという繊細なものに取って代わったのはいつ頃だったろう。

ともかく中学からは断固拒んだ。野暮ったさそのものに思えた。いかした男(「いかれた」ではない)のすることじゃないと思った。下着の上に直に長ズボンを穿いたのである。母親は穿かねば大きくなってリウマチになるよと脅した(カタカナ語の傷病名には妙な怖さがあったものだ。風邪よりインフルエンザ、物貰いよりはトラコーマ、腫れ物よりはジンマシンの方が。ジンマシンが蕁麻疹であるのを知ったのは高校に入ってからだった)。「お父さんは夏だってズボンの下にすててこを履いてるのよ」と根拠のあるような無いようなことを言って追い打ちを掛けた。厳寒期であれ吹き荒ぶ寒風にズボンをはためかせて堪えた。これぞ男子という気概だったのだろう。

 親の強制に従い股引を穿いていた小5、6の頃は、半ズボンの穿ける日をどんなに待ち望んだものか。当時のそれは短ければ短いほど都会的で格好良いとされた。今の七分もあるような物は田舎臭く思えた。東京からの転校生は下のブリーフが見えそうなほど短い物を穿いていて(「鉄人28号」の正太郎少年のようにイカしていた)、母に2センチほど裾上げしてと強請ったこともあった。猿股なんぞ履いていたら下着丸出しの恥ずかしい出で立ちとなるのだから、誰がいち早く半ズボンに切り替えるか、口には出さぬ男子の競争であった。北国の春は如何せん、肌寒いから半ズボンの下には長靴下を履かねばならない。場合によればその下に股引を穿けと言われる奴もいた。それは敗北である。ならばまだ長ズボンで通す方がいい。微妙な闘いだった訳である。

 長靴下を脱ぎ素足で半ズボンとなった日はもう不思議なほど躰が軽かった(勿論、ソックスは履いている。足首までのズックから見えるそれは、眩しく見えたはずだ。小3まではゴムの短靴を履いていたのでもろに素足になるのが夏の徴であった)。まさかスキップまではしなかったろうが、まるで飛び跳ねながら通学したものである。夏服解禁の喜びである。自由、解放に繫がる歓喜であった。

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「夏服」蒼月 光 著

 庭の雪がようやく見えなくなって、ほんのりと太陽の光が温かみを感じるようになってきた頃。雀の御一行が、鳥小屋近くのまだ小枝も伸びていないような桜の木に舞い降りてくる。鳥小屋といっても簡素で壁がないそれは、寒さを凌ぐには不十分なのだろうに。厚い冬羽毛をまとってコロコロンと鈴なりに寄り添い休む様を二重窓越しによく見かける。

 庭木がいつのまにか枝葉を伸ばし、葉を沢山芽吹かせると共に、徐々に冬毛から換毛期を迎えてスリムになっていく雀御一行様。

 チュンチュンチュンチュン朝から冴えわたる太陽の熱気に部屋の窓を開け放つとパタパタ飛び回りながら聞こえるカシマシイ囀り。

 夏が来たんだなぁと寝癖の付いた髪を撫でつけながら、濃い碧色になった空を見上げるのは季節変わりの恒例儀式となっている。

 

秋冬はほぼパンツスタイルの私も、夏はスカートを履く率が高い。

ガーデニングを含む家庭菜園での土いじりや、よく動く場合の時以外は、大体スカートを履いている。ふわんとスカートの裾が揺れるだけで、例えぬるく気怠い空気の重さが有ったとしても、ほんの少し涼しいと感じるのが良い。

要注意なのは、地下鉄の列車がホームに入ってから停車するまでに巻き起こる風。私がマリリンモンローであったらまた違ったかもしれないが、単に他の人に迷惑になるだけなので、裾をしっかり押さえていなければならない。

それにしたって何故あんなに丁度スカートが巻き上がるように風が起こるものなのか。設計する時に風が巻き上がらないような仕組みは作れなかったのだろうか…いや、単純に、自分が列車の出入口付近から少し離れて立って待っていれば良い話で済むのだが。

不便なところも有りつつ、やはりスカート…特にワンピースは良い。

寄せては返す波打ち際で遊ぶ時も、ほんの少し裾を上げたら丁度良い。汗びっしょりで家に帰って、一刻も早くシャワーを浴びたい時も、スポンっとすぐ脱げるのも良い。

つまり面倒くさがりの私にはピッタリの服なのである。

 

今年は特に藍色のワンピースを無意識によく着ている。

生地は濃い藍色で染められていて、大きく咲いた白い花が数点咲いた柄のワンピースは通販で購入したものだが、稀にみるお気に入りの服となっている。

通販で洋服を購入すると、たまに掲載画像を見て想ったイメージと異なる現物が届き、酷い時には返品騒ぎになることもある中、お気に入りが届くと本当に嬉しくて、飽きるまで着倒してしまうことが多い。

今回の場合、まさにそれが、この藍色ワンピースなのだ。

少し厚めの丈夫な生地で作られているので、ひらりと上に浮くことはないが、強い風が吹くと旗のようにはためく。

これが散歩をしている時には、本当に気持ちが良いもので。両手広げて体全身で風を受けながら空を見ると、飛べるんじゃないかとすら思う瞬間もある。

 

はためく、といえば。背中あたりでパタパタするセーラーで、翼が生えたような気持ちになった学生時代を思い出す。

自分の等身大の背丈が見えるようになってきた頃。

何になろうかと云うよりも何になれるんだろうと考えがシフトしてきた頃。

空に手を伸ばしたら、やたら雲が低く見えて、でも煌めく星は遠くて。

息が詰まりそうになった時、味方してくれたのは風だった。

息をつきながら坂道を登る度下る度、夏仕様の薄い生地で出来たセーラー服の黒い襟を遊ぶようにはためかせると同時に、しっかりと背中を押してくれた

土地に護られているというのはあぁいうことを言うのだろうか。

お陰で事故等の大きな災いなく学生時代を過ごすことができたのだから。

 

ずっと思っていたことが有る。

帰り道、無意識に皆で謳いながら帰ったのは、合唱部の戯言だけではなくて無意識でのお礼だったのだろうかと。

通学路近辺に住んでいる方達から、お宅の高校の生徒が、毎日まいにち数人で謳いながら帰るのが頭に響いて煩いという苦情が来なかったのは何故だろうかと。

思い返すと赤面でしかないが、ほぼ毎日の合唱部の部活帰りは必ず何かしらを謳いながら帰っていた記憶が濃く残っている。ハモリも入れてなかば真剣に謳いすぎていた感が伝わってしまって恐怖すら感じさせてしまったのかもしれないが。

土地神様が聴いて喜んでくれていたと思っていた方が、精神衛生上にも良い。

まさに若気の至り、ただそれだけだと。

 

 扇風機の羽が回る音の前。カバーを起毛生地から麻生地に換えたクッションに寄りかかりながら、スマホに次々届くバーゲンセールの広告メールを見ている。

夏服バーゲン等の言葉が踊るのを、春の終わり頃から見ているような気がする。

東京が日本の季節の子午線になって、TVや雑誌もその通りの季節で番組進行や記事掲載をしているが、地元北海道との季節の差が少なくとも1か月、大きくて2か月くらいはあると思う。

そのズレを見ない振りでそのまま適用させてバーゲンにしてしまうから、まだ夏にもなっていない時期からの夏服バーゲンセールとなっている状況といったところだろうか。

今年着られる服を安く買えると思ったら悪くはない話か。

それに近年は、北海道でも5月の気温が30℃を超すような異常気象が頻発している。

私が子供の頃は7月8月でも30℃を超すのは数日だったように覚えているのだが。

地球に、本当は何が起きているんだろう。

熱中症になって以来、家の中でも持ち歩くようになったサーモス仕様の水筒を、とおく見つめる。

 

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「夏服」御理伊武 著

 何度か目覚まし時計のけたたましい音を夢の中か起きる気力のない現実かで、やり過ごした私は、最後のアラームを止める。十分間に合う時間に最終アラームは設定されているが、それでも急がなくてはいけない。

昨日洗って干したままの白い制服はまだ湿っているように感じる。セーラ服の黒い襟とブラウスは洗濯の度に取り外して洗う。襟についたボタンを一つ一つ抜かさずにくっつけては閉じるのには朝から余計な集中力が必要だ。

昨日洗った夏の制服のスカートも物干し竿から下ろす。洗う度に黒いスカートのひだが伸びていないか心配になってしまう。脚の形が透けるほどにスカートの布地は薄いから中に白いペチコートを着る。指が滑るポリエステルの布地は綿に慣れた体には大人っぽく思う。皆は着ていたのか分からないが、使わなくなった母のお古をもらって着ていた。

私は台所へ、朝の準備とお弁当を作るためにまだ乾ききらない格好のまま向かう。自分のお弁当箱は、札幌駅前の五番館で長い時間、吟味してようやく選んだウサギの上品な漆塗り風の二段重ねのお弁当箱だ。炊き上がったばかりの白飯をぎゅーっと押し込んで入れて、鰹のふりかけを掛けて下の段は終了、あとは上の段にオレンジの包装で包まれた魚肉ソーセージを一応斜めに切って入れて、レンジでチンした唐揚げやコロッケを入れて終了。ボリュームたっぷりなのに、放課後の部活の時間まで持たずお腹が空いてしまう。お弁当のおかずのついでに魚肉ソーセージを醤油で炒めて白いご飯を二膳。朝ご飯を食べたら、鞄を持って自転車に乗る。まだ7時半前なのに日差しはじりじりと暑い。生乾きの制服はそのうち乾くと汗ばみ始めた背中でぐんぐんとペダルをこぐ。

 

 朝、日光の入り加減で、早朝か、朝か、昼間近なのか想像はつくが。東と南が隣家の壁の小さな我が家では、時計と携帯とテレビに時間を教えてもらうしかない。

 すぐそこが隣の家の壁だ。分かってはいるが、カーテンと窓を開けて、外気を入れる。

 一応エアコンはあるが、窓近くにはびこる熱帯のねちっこい空気まで冷やすことは出来ない。どうせ暑いなら新鮮な空気を循環させた方がいいと、扇風機のスイッチを足の指で押し、暑いなあといいながら、冷蔵庫の作り置きの麦茶をグラスいっぱいに注いで一気に飲み干す。

 薄手生地の半ズボンとTシャツが夏の間の寝間着と部屋着だ。この部屋着でさえも、十年以上はモデルチェンジしていない。そのうち私の体と共に、ビンテージとして味わいが出そうな風情でもある。

 「ああ、おなかがすいたなあ」と独りで空中に呟いて。テレビを点けると日曜のお昼番組を放送していた。そばにあったスマホを開いて、昨日の職場での飲み会での失態や、気のある人に変なメールを送っていないかを確認する。なにもないし、今日の予定も何もないと安堵して、スマホの画面を真っ黒にして、床に転がる。「ああ、おなかがすいたなあ」ともう一度言う。

 イオンのテナントで入っている炎の唐揚げは絶品だと思う。

 お米を炊飯器にセットして少し遠いが自転車でイオンへ向かえば、唐揚げ定食が完成する。しかし、ごろんと転がって居る私にはお米を研ぐことさえ、炊ける時間を待つことさえ、おっくうに感じる。

その次の候補は一丁歩いたすぐ近くのお弁当屋だ。脂身が多いおそらくタイ産の唐揚げも、使い古した油を使っている感も、全てが癖になる味わいで好ましい。自家製か業務用か不明のきんぴらもお袋の味ではないが哀愁があってなくてはならない味と食感がアクセントになっている。

このままでは、部屋の中で一日転がって、そのうち夕方になってしまうと、タンスと、洗い干したハンガーの中から服を探す。

仕事用のブラウスと皺になりにくい素材の灰色のスカート、また白やピンクや水色のブラウスと黒色のスカート、紺色のスカート、ストライプのスカート。ブラウスもスカートも全て仕事向きで、部屋着以外の服を持っていないことに気がつく。

部屋着と仕事着しか就職してこの部屋に暮らしてからは必要ではなく、制服のない職場なので地味でかつ小綺麗な仕事服ばかりを買っていた。朝から日が沈むまで冷房のかかった室内にいるから、休日用の特別な服を持っていなかった。それにブラウスとスカートがあれば取りあえずどこでも格好がつく。

まさかよれよれの部屋着を着ていくわけには行かないので、仕事用のフリルの付いたピンクのストライプのブラウスと、同じストライプの灰色スカートを合わせて、財布をエコバックに入れてお弁当屋へ向かう。パンプスに裸足というわけにもいかず、ストッキング履き、すっぴんでは変なのでお化粧も軽くする。なんだか、日曜日なのに平日とさほど変わらない。

 

 外に出ると日差しは思ったよりもきつく、じりじりと肌を攻撃する。むっとしたアスファルトの熱気にヒールの踵が溶けてしまうのではないかと思う。

弁当屋さんの前で唐揚げ弁当を頼む予定が、店頭のおすすめの季節の鰯唐揚げ弁当海苔二倍増しというオーダーに気分が変わり、椅子に腰掛けてお弁当が出来るまで待つ。

鰯のお弁当を受け取り、徒歩の私は家へ向かってもよいのだが、小さなコンビニに寄り、冷えた98円のジュースを買い、広めの公園へと向かった。

木陰になった場所にベンチを見つけて、昼休み中のOLのように腰掛ける。

公園を行き来する人たちを眺めて、ジュースを飲む。ふいにスマホを家に忘れてきたことを思い出したが、手持ちぶたさなだけで、どうしても必要というわけでもない。

 

 ストッキングを履いた脚を足首で交差させて、私は鰯の唐揚げ弁当を食べ始める。副菜のきんぴらの上に小さな鳥唐揚げが入っていて、嬉しくなる。

色とりどりの服を着た人が行き交う。夏以外の季節もコートの下の服は自分好みの鮮やかな色の服を着ているのだろうと思う。

休日のどこにでも向かうことができるという幸せな空気が、公園の噴水の水しぶきに同調してはじけて飛んでいく

ピンクのブラウスに灰色スカートだって、悪くない。毎日着ているから体の一部と化していてこの服の中で自由に過ごせる。

不自由な制服を着ていた頃だって、その服でどこまでも行けた。

スマホはないけれど、お財布はあるから半日旅に出ても良い。JRに乗って蘭島までとか。

 

大好きな唐揚げを最後にとっておいて。

全て食べ終えるころまでには、どこに行こうか考えておこう

立ち上がり、再び日差しに包まれる。

色とりどりの夏の風景の中に私も混ざっていく

 

 

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「料理」高柳 龍 著

ひねくれ者のバラード                                                 

 

 初夏の散策に鳥の声を楽しむ。鶯、郭公、鶫、等々、姿見せずに空間に響き渡らせる声色に釘付けになる(種々の声が混じるが不案内の為、美声の主をこれ以上挙げられぬ。残念)。

 

 ある日ふと思った。彼等の美声は快楽の為に歌う人間のそれとは目的を異にする、だからこその大音量であったかと(種々の語弊もあろうが瑣事には目を瞑って頂きたい。私は専門家ならぬ故)。

実は春に職を辞し自適を楽しむ生活を送ってきたが、不思議なことに声が掠れ始めた。普段使わなくなった為と糾明した。と言ってどうしたものか……などと考えていた故の気付きだったか。

好機と見てすかさず近くに誰もいないのを確かめ「学生時代」を歌った。次第に声高にしながら鶯の音量と測り比べたのである(比較には「矢切の渡し」の方がと思ったが、如何せん、歌詞が浮かばず)。結果は日を見るより明らかで私の敗北。しかし、己が枯れて来たことより小鳥が想像以上に大声で泣いている事実に瞠目した。野生の逞しさに感じ入ったのである。

 

 また別の散歩日のこと。我が進む道を黄鶺鴒がぴょんぴょんと跳び歩く。細身の胸から腹にかけての黄の鮮やかさ、長い尾羽を上下に振る姿形に暫し注目。と、餌を見つけたのだろう、嘴でツンと抓んだ。見れば芋虫が蛇を真似るようにくねっていた。普段ならそれで観察終了だった、食物連鎖の掟通りだったのだから。

ところがその日は思考が継続した。舗装路面を芋虫が歩くのはあまりに無謀、捕食者にとって恰好の馳走以外の何ものでもなかった。だが、人をからかうように低空を飛翔する姿美しき小鳥がなにゆえ芋虫などを食するなんて。木の実を啄む私のイメージを見事に壊してくれた。相手が毒を持っていようが、黴菌が付着していようが構わない。こうして貴婦人は腹に満足を与えるのである。

家の中で大切に飼われている猫だって、普段食すキャットフードしか食べないのではなかろう。気儘に外に出れば何こそ不潔なものだって口にするのだ。それが自然なのだ。可愛いらしい燕の雛の食餌風景をTVで観たが、観ようによって何と残酷な光景であったろうか。一度そんなふうに眺め出せばもはやライオン家族の食餌風景を心静かに眺められはしない。

 これが野生というものである。人間ばかりが足から手を独立させ脳を肥大化するに成功した為、これを喪失した。野生の掟からの脱却は想像を逞しくして文化文明を築いたが、野生本能の喪失はいつかとんでもない事態に陥るのではなかろうか。そう勝手に危惧しながらも元に戻る道が用意されていないことだけは自明であった。

 

  ともあれ、現代人は野生を失って華やかな文化に生きている。恐竜時代が去った後、取って代わった人類の時代もやがて次代に譲るのが宿命なれば、今の繁栄のうちに幸福を噛みしめていれば良いのかも知れない。躰に悪そうなものはなるべく喰わぬがいいし、比較して旨くないものは敢えて食べる要もない。生ものがえてして腐敗し躰を壊すものなら加熱すればいいのだ。ゲテモノに手を出す必要などありはすまい。昆虫食もいずれ受け入れねばならぬと声高に叫ばれても、自分の生きてるうちが大丈夫なら、必須になった時に生きている人間が我慢すればいいのである。

 

 やたら無臭剤や抗菌剤を吹き付ける清潔な時代を現代人は築いた。自動洗浄トイレでなければ用を足せぬ人もいるし、家の中に蠅や蚊の一匹ですら存在を許さぬ潔癖症の人もいる。香水なのか制汗剤なのか、はたまた日焼け止めや脱臭スプレーの香りを身に纏い、「生物」である筈の自分の本当の匂いが分からなくなった者の何と多いことか。30代で一旦染めた髪は元々何色であったか分からぬ人も、諸所に整形を施した挙げ句結婚し、生まれた子を見て一体誰の子か不審に思う人もいるのじゃないか。

 

 お洒落で上品な人は食べるものが違う。極端な話、加工した挙げ句に元の素材を判明させられぬご馳走も多いのではないか。焼く、似る、蒸す、茹でるなどの料理法を駆使し、素材を美しいものに変えて摂るのが人間様なのだ。辛うじて生を味わう寿司や野菜、果物もないわけはないが、それとても炙りサーモンの方が旨い。数種類の香辛料を混ぜ合わすだけでいっそう美味しくなる、果物とてもスムージーにした方がお洒落と言ったりする。

 

 他の生き物とは異なる贅沢、清潔、上品さ、優雅さを纏った人類よ、万歳! 今の時代を旺盛に奢り楽しめ。次代は昆虫の世界と言われるから、乗っ取られる前に威儀を正して昆虫食に取り組み、人類の時代を幾分なりとも延命させられれば御の字なのだろう。 

 

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「料理」蒼月光 著

おふくろの味というのがある。

幼い頃から食べ慣れた、自分の家でしか食べられない味。

我が家の場合は、主に御赤飯と小鯵の唐揚げの南蛮漬けだろうか。

私は生まれも育ちも道産子だけれど母は関東出身。

関東にいた時間より北海道で暮らす時間の方がはるかに長くなってしまった母であっても、自然と料理の味付けは関東方面のものが良く出てくる。

 

まず我が家で御赤飯を作る時は小豆を使う。

小豆を水でふやかした後、煮て、煮汁でもち米を染めて炊く。

北海道では小豆ではなく、甘納豆が御赤飯に入っているのが主流だ。しかしながら、私はこの小豆御赤飯しかほぼ食べてこなかったので、逆に甘納豆の入った御赤飯が珍しく感じていた。甘納豆の方が嫌いという訳ではないが、舌に馴染みがないためか、小豆と甘納豆の二種類が選べる時は、今でも小豆を選択するほどだ。

ほんのりと豆の香ばしさを感じながらもっちもちと食べる御赤飯は、ハレの日に必ず作り続けている料理でもある。

 

それから、小鯵の唐揚げの南蛮漬け。骨ごとまるまる食べられるように小鯵をカリッカリになるまで油で揚げ、そこにマリネした玉ねぎや大根や人参をシャバッとかけて食べるもの。

これは私の好物なのだが、なかなか食べられない料理でもある。

何故か。

それはとにかく小鯵が売られていないからだ。
アシがはやいとは云え、生鮮品であっても流通の優れたこの時代、食べ方を知らないから買わない売れないのがその理由なのだろう。本州でホッケが貴重であるように、北海道では馴染みのない種類の魚だとも言える。実際、私も小鯵の食べ方は、この唐揚げ南蛮漬けくらいしか知らない。売られていないから作るにしても作ることができない、勿論食べることもできないなんとも悔しい料理なのである。

数十年前、まだ子供だった私がこの料理を大好きなことを知った母方の叔父が、何かの用事で此方に来た時に、わざわざ発泡スチロールの箱にいれて、大量の小鯵を直接持ってきてくれたことが鮮明に記憶に残っている。
まるで釣りから帰ってきたように、陽気な笑顔でさり気なく届けてくれた様子は、とてもはるばる飛行機でやってきたようには見えなくて、嬉しいと同時に驚いたものだ。

 

食材あっての料理。地場にない料理に惚れてしまうと、片思い感が半端ないのである。

高嶺の花に恋したように、表立ってはいかないけれど、密やかにずっと熱は鎮まらず。

今は移住が流行っているそうだけれど、こういうのも理由の一つなのかなと思う。

 


先般までテレビで放映されていた「きのう何食べた?」というドラマがある。

俳優陣のキャスティングの妙もあり絶賛されて終了し、早くも続編を希望されているドラマだ。御多分にもれず、私も毎週、深夜に放映されるこのドラマを観ては、シロさんとケンジに夢中になった一人である。LGBTの日常を描き、様々な見方が出来る作品でもあるけれど、今回は料理に注目しようと想う。

 

主人公の弁護士として働くシロさんは、家に帰ると日々の料理を作る。

家族であるケンジと自分の為、ひと月の食費や摂取カロリーにかなり気を配って作るのだが、副菜が好きという困った凝り性でもあり、頭を悩ませながら作る。

生きる為、それもどんなに願っても子を成せない二人が少しでも健康的に長生きが出来るように想いを込めて。

 

このシーンを観た時、自分が子供の頃、母は当たり前のように食事を用意してくれていたのを思い出した。至らない、ただの子供だった私は、これは一般的な家庭の光景で当たり前のことだとすら思っていた。

だが、本当は違う。

自分が大人になりキッチンに立つことが多くなってきて、ようやく初めてわかることがある。思い返せば母は自分が体調悪かろうが、親子喧嘩をしてようが関係なく、最終的には絶対、なんらかの湯気の立つ料理を作ってくれていた、と。

 

料理は使う皿の大きさや枚数に関わらず、少なからずの思考力や体力等を使うもの。しかも、毎日、来る日も来る日も。
これが自分だけなら、適当に済ますのだろうけれど、一緒に食べる人がいるならそうもいかない。大抵の家庭で出てくる「好き嫌いは駄目バランスよく食べなさい」…そうお小言を言う為には、まずバランス良い料理が食卓に並んでいる前提が必要だ。

 

シロさんも一食でなるべく「あまからすっぱい」を網羅して提供すること念頭に、メニューを毎日創り出している。

このポイントは副食にある。

御飯一食、メインはすぐ決まるものの、それに伴う副食というものが本当に難しい。

例えばここに、炊き立て御飯とマグロのお刺身がある。

その他に何を揃えるか。野菜が欲しいからお浸しか、それともお味噌汁か。子ども達の好きな卵焼きでも焼こうか。1日頑張ったご褒美に、貰ったカニ缶で何か作ろうか。

料理人の腕の見せ所でもあるが、一番の悩みどころでもある。

 

お腹の虫が騒ぎ出すような温かい薫り、色とりどりの料理がお皿に乗って。

「今日はあれがあってね」「明日はこんなことがあるみたい」美味しい料理に箸を伸ばしながら話したり思ったりすることは大抵が愉しいこと。社会的にも重要な商談には美味しい料理が必須という。料理は人の心理にも作用するものなのだ。

 

孤食が社会問題になり、子ども食堂というものが徐々に広がりをみせている。

食事は、栄養を補給するのが第一の目的だけれど、同時に心の栄養補給できるものでもある。御飯一粒ですら食卓に並ぶまで、どれだけのエネルギーが必要だったかを伝えることができたら、きっと心がこもった挨拶ができるはず。

「いただきます」

「ごちそうさま」

それがどれだけの波紋を呼べるのか、分からないけれど。あまりの理不尽さに胸が痛むニュースが一つなくなるくらいの効果はあるんじゃないかと願いを込めて想っている。

 

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鮭と卵とキュウリのおすし