八味姉妹の部屋

文芸ユニット。只今、エッセイの勉強中です。

「夏服」蒼月 光 著

 庭の雪がようやく見えなくなって、ほんのりと太陽の光が温かみを感じるようになってきた頃。雀の御一行が、鳥小屋近くのまだ小枝も伸びていないような桜の木に舞い降りてくる。鳥小屋といっても簡素で壁がないそれは、寒さを凌ぐには不十分なのだろうに。厚い冬羽毛をまとってコロコロンと鈴なりに寄り添い休む様を二重窓越しによく見かける。

 庭木がいつのまにか枝葉を伸ばし、葉を沢山芽吹かせると共に、徐々に冬毛から換毛期を迎えてスリムになっていく雀御一行様。

 チュンチュンチュンチュン朝から冴えわたる太陽の熱気に部屋の窓を開け放つとパタパタ飛び回りながら聞こえるカシマシイ囀り。

 夏が来たんだなぁと寝癖の付いた髪を撫でつけながら、濃い碧色になった空を見上げるのは季節変わりの恒例儀式となっている。

 

秋冬はほぼパンツスタイルの私も、夏はスカートを履く率が高い。

ガーデニングを含む家庭菜園での土いじりや、よく動く場合の時以外は、大体スカートを履いている。ふわんとスカートの裾が揺れるだけで、例えぬるく気怠い空気の重さが有ったとしても、ほんの少し涼しいと感じるのが良い。

要注意なのは、地下鉄の列車がホームに入ってから停車するまでに巻き起こる風。私がマリリンモンローであったらまた違ったかもしれないが、単に他の人に迷惑になるだけなので、裾をしっかり押さえていなければならない。

それにしたって何故あんなに丁度スカートが巻き上がるように風が起こるものなのか。設計する時に風が巻き上がらないような仕組みは作れなかったのだろうか…いや、単純に、自分が列車の出入口付近から少し離れて立って待っていれば良い話で済むのだが。

不便なところも有りつつ、やはりスカート…特にワンピースは良い。

寄せては返す波打ち際で遊ぶ時も、ほんの少し裾を上げたら丁度良い。汗びっしょりで家に帰って、一刻も早くシャワーを浴びたい時も、スポンっとすぐ脱げるのも良い。

つまり面倒くさがりの私にはピッタリの服なのである。

 

今年は特に藍色のワンピースを無意識によく着ている。

生地は濃い藍色で染められていて、大きく咲いた白い花が数点咲いた柄のワンピースは通販で購入したものだが、稀にみるお気に入りの服となっている。

通販で洋服を購入すると、たまに掲載画像を見て想ったイメージと異なる現物が届き、酷い時には返品騒ぎになることもある中、お気に入りが届くと本当に嬉しくて、飽きるまで着倒してしまうことが多い。

今回の場合、まさにそれが、この藍色ワンピースなのだ。

少し厚めの丈夫な生地で作られているので、ひらりと上に浮くことはないが、強い風が吹くと旗のようにはためく。

これが散歩をしている時には、本当に気持ちが良いもので。両手広げて体全身で風を受けながら空を見ると、飛べるんじゃないかとすら思う瞬間もある。

 

はためく、といえば。背中あたりでパタパタするセーラーで、翼が生えたような気持ちになった学生時代を思い出す。

自分の等身大の背丈が見えるようになってきた頃。

何になろうかと云うよりも何になれるんだろうと考えがシフトしてきた頃。

空に手を伸ばしたら、やたら雲が低く見えて、でも煌めく星は遠くて。

息が詰まりそうになった時、味方してくれたのは風だった。

息をつきながら坂道を登る度下る度、夏仕様の薄い生地で出来たセーラー服の黒い襟を遊ぶようにはためかせると同時に、しっかりと背中を押してくれた

土地に護られているというのはあぁいうことを言うのだろうか。

お陰で事故等の大きな災いなく学生時代を過ごすことができたのだから。

 

ずっと思っていたことが有る。

帰り道、無意識に皆で謳いながら帰ったのは、合唱部の戯言だけではなくて無意識でのお礼だったのだろうかと。

通学路近辺に住んでいる方達から、お宅の高校の生徒が、毎日まいにち数人で謳いながら帰るのが頭に響いて煩いという苦情が来なかったのは何故だろうかと。

思い返すと赤面でしかないが、ほぼ毎日の合唱部の部活帰りは必ず何かしらを謳いながら帰っていた記憶が濃く残っている。ハモリも入れてなかば真剣に謳いすぎていた感が伝わってしまって恐怖すら感じさせてしまったのかもしれないが。

土地神様が聴いて喜んでくれていたと思っていた方が、精神衛生上にも良い。

まさに若気の至り、ただそれだけだと。

 

 扇風機の羽が回る音の前。カバーを起毛生地から麻生地に換えたクッションに寄りかかりながら、スマホに次々届くバーゲンセールの広告メールを見ている。

夏服バーゲン等の言葉が踊るのを、春の終わり頃から見ているような気がする。

東京が日本の季節の子午線になって、TVや雑誌もその通りの季節で番組進行や記事掲載をしているが、地元北海道との季節の差が少なくとも1か月、大きくて2か月くらいはあると思う。

そのズレを見ない振りでそのまま適用させてバーゲンにしてしまうから、まだ夏にもなっていない時期からの夏服バーゲンセールとなっている状況といったところだろうか。

今年着られる服を安く買えると思ったら悪くはない話か。

それに近年は、北海道でも5月の気温が30℃を超すような異常気象が頻発している。

私が子供の頃は7月8月でも30℃を超すのは数日だったように覚えているのだが。

地球に、本当は何が起きているんだろう。

熱中症になって以来、家の中でも持ち歩くようになったサーモス仕様の水筒を、とおく見つめる。

 

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「夏服」御理伊武 著

 何度か目覚まし時計のけたたましい音を夢の中か起きる気力のない現実かで、やり過ごした私は、最後のアラームを止める。十分間に合う時間に最終アラームは設定されているが、それでも急がなくてはいけない。

昨日洗って干したままの白い制服はまだ湿っているように感じる。セーラ服の黒い襟とブラウスは洗濯の度に取り外して洗う。襟についたボタンを一つ一つ抜かさずにくっつけては閉じるのには朝から余計な集中力が必要だ。

昨日洗った夏の制服のスカートも物干し竿から下ろす。洗う度に黒いスカートのひだが伸びていないか心配になってしまう。脚の形が透けるほどにスカートの布地は薄いから中に白いペチコートを着る。指が滑るポリエステルの布地は綿に慣れた体には大人っぽく思う。皆は着ていたのか分からないが、使わなくなった母のお古をもらって着ていた。

私は台所へ、朝の準備とお弁当を作るためにまだ乾ききらない格好のまま向かう。自分のお弁当箱は、札幌駅前の五番館で長い時間、吟味してようやく選んだウサギの上品な漆塗り風の二段重ねのお弁当箱だ。炊き上がったばかりの白飯をぎゅーっと押し込んで入れて、鰹のふりかけを掛けて下の段は終了、あとは上の段にオレンジの包装で包まれた魚肉ソーセージを一応斜めに切って入れて、レンジでチンした唐揚げやコロッケを入れて終了。ボリュームたっぷりなのに、放課後の部活の時間まで持たずお腹が空いてしまう。お弁当のおかずのついでに魚肉ソーセージを醤油で炒めて白いご飯を二膳。朝ご飯を食べたら、鞄を持って自転車に乗る。まだ7時半前なのに日差しはじりじりと暑い。生乾きの制服はそのうち乾くと汗ばみ始めた背中でぐんぐんとペダルをこぐ。

 

 朝、日光の入り加減で、早朝か、朝か、昼間近なのか想像はつくが。東と南が隣家の壁の小さな我が家では、時計と携帯とテレビに時間を教えてもらうしかない。

 すぐそこが隣の家の壁だ。分かってはいるが、カーテンと窓を開けて、外気を入れる。

 一応エアコンはあるが、窓近くにはびこる熱帯のねちっこい空気まで冷やすことは出来ない。どうせ暑いなら新鮮な空気を循環させた方がいいと、扇風機のスイッチを足の指で押し、暑いなあといいながら、冷蔵庫の作り置きの麦茶をグラスいっぱいに注いで一気に飲み干す。

 薄手生地の半ズボンとTシャツが夏の間の寝間着と部屋着だ。この部屋着でさえも、十年以上はモデルチェンジしていない。そのうち私の体と共に、ビンテージとして味わいが出そうな風情でもある。

 「ああ、おなかがすいたなあ」と独りで空中に呟いて。テレビを点けると日曜のお昼番組を放送していた。そばにあったスマホを開いて、昨日の職場での飲み会での失態や、気のある人に変なメールを送っていないかを確認する。なにもないし、今日の予定も何もないと安堵して、スマホの画面を真っ黒にして、床に転がる。「ああ、おなかがすいたなあ」ともう一度言う。

 イオンのテナントで入っている炎の唐揚げは絶品だと思う。

 お米を炊飯器にセットして少し遠いが自転車でイオンへ向かえば、唐揚げ定食が完成する。しかし、ごろんと転がって居る私にはお米を研ぐことさえ、炊ける時間を待つことさえ、おっくうに感じる。

その次の候補は一丁歩いたすぐ近くのお弁当屋だ。脂身が多いおそらくタイ産の唐揚げも、使い古した油を使っている感も、全てが癖になる味わいで好ましい。自家製か業務用か不明のきんぴらもお袋の味ではないが哀愁があってなくてはならない味と食感がアクセントになっている。

このままでは、部屋の中で一日転がって、そのうち夕方になってしまうと、タンスと、洗い干したハンガーの中から服を探す。

仕事用のブラウスと皺になりにくい素材の灰色のスカート、また白やピンクや水色のブラウスと黒色のスカート、紺色のスカート、ストライプのスカート。ブラウスもスカートも全て仕事向きで、部屋着以外の服を持っていないことに気がつく。

部屋着と仕事着しか就職してこの部屋に暮らしてからは必要ではなく、制服のない職場なので地味でかつ小綺麗な仕事服ばかりを買っていた。朝から日が沈むまで冷房のかかった室内にいるから、休日用の特別な服を持っていなかった。それにブラウスとスカートがあれば取りあえずどこでも格好がつく。

まさかよれよれの部屋着を着ていくわけには行かないので、仕事用のフリルの付いたピンクのストライプのブラウスと、同じストライプの灰色スカートを合わせて、財布をエコバックに入れてお弁当屋へ向かう。パンプスに裸足というわけにもいかず、ストッキング履き、すっぴんでは変なのでお化粧も軽くする。なんだか、日曜日なのに平日とさほど変わらない。

 

 外に出ると日差しは思ったよりもきつく、じりじりと肌を攻撃する。むっとしたアスファルトの熱気にヒールの踵が溶けてしまうのではないかと思う。

弁当屋さんの前で唐揚げ弁当を頼む予定が、店頭のおすすめの季節の鰯唐揚げ弁当海苔二倍増しというオーダーに気分が変わり、椅子に腰掛けてお弁当が出来るまで待つ。

鰯のお弁当を受け取り、徒歩の私は家へ向かってもよいのだが、小さなコンビニに寄り、冷えた98円のジュースを買い、広めの公園へと向かった。

木陰になった場所にベンチを見つけて、昼休み中のOLのように腰掛ける。

公園を行き来する人たちを眺めて、ジュースを飲む。ふいにスマホを家に忘れてきたことを思い出したが、手持ちぶたさなだけで、どうしても必要というわけでもない。

 

 ストッキングを履いた脚を足首で交差させて、私は鰯の唐揚げ弁当を食べ始める。副菜のきんぴらの上に小さな鳥唐揚げが入っていて、嬉しくなる。

色とりどりの服を着た人が行き交う。夏以外の季節もコートの下の服は自分好みの鮮やかな色の服を着ているのだろうと思う。

休日のどこにでも向かうことができるという幸せな空気が、公園の噴水の水しぶきに同調してはじけて飛んでいく

ピンクのブラウスに灰色スカートだって、悪くない。毎日着ているから体の一部と化していてこの服の中で自由に過ごせる。

不自由な制服を着ていた頃だって、その服でどこまでも行けた。

スマホはないけれど、お財布はあるから半日旅に出ても良い。JRに乗って蘭島までとか。

 

大好きな唐揚げを最後にとっておいて。

全て食べ終えるころまでには、どこに行こうか考えておこう

立ち上がり、再び日差しに包まれる。

色とりどりの夏の風景の中に私も混ざっていく

 

 

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「料理」高柳 龍 著

ひねくれ者のバラード                                                 

 

 初夏の散策に鳥の声を楽しむ。鶯、郭公、鶫、等々、姿見せずに空間に響き渡らせる声色に釘付けになる(種々の声が混じるが不案内の為、美声の主をこれ以上挙げられぬ。残念)。

 

 ある日ふと思った。彼等の美声は快楽の為に歌う人間のそれとは目的を異にする、だからこその大音量であったかと(種々の語弊もあろうが瑣事には目を瞑って頂きたい。私は専門家ならぬ故)。

実は春に職を辞し自適を楽しむ生活を送ってきたが、不思議なことに声が掠れ始めた。普段使わなくなった為と糾明した。と言ってどうしたものか……などと考えていた故の気付きだったか。

好機と見てすかさず近くに誰もいないのを確かめ「学生時代」を歌った。次第に声高にしながら鶯の音量と測り比べたのである(比較には「矢切の渡し」の方がと思ったが、如何せん、歌詞が浮かばず)。結果は日を見るより明らかで私の敗北。しかし、己が枯れて来たことより小鳥が想像以上に大声で泣いている事実に瞠目した。野生の逞しさに感じ入ったのである。

 

 また別の散歩日のこと。我が進む道を黄鶺鴒がぴょんぴょんと跳び歩く。細身の胸から腹にかけての黄の鮮やかさ、長い尾羽を上下に振る姿形に暫し注目。と、餌を見つけたのだろう、嘴でツンと抓んだ。見れば芋虫が蛇を真似るようにくねっていた。普段ならそれで観察終了だった、食物連鎖の掟通りだったのだから。

ところがその日は思考が継続した。舗装路面を芋虫が歩くのはあまりに無謀、捕食者にとって恰好の馳走以外の何ものでもなかった。だが、人をからかうように低空を飛翔する姿美しき小鳥がなにゆえ芋虫などを食するなんて。木の実を啄む私のイメージを見事に壊してくれた。相手が毒を持っていようが、黴菌が付着していようが構わない。こうして貴婦人は腹に満足を与えるのである。

家の中で大切に飼われている猫だって、普段食すキャットフードしか食べないのではなかろう。気儘に外に出れば何こそ不潔なものだって口にするのだ。それが自然なのだ。可愛いらしい燕の雛の食餌風景をTVで観たが、観ようによって何と残酷な光景であったろうか。一度そんなふうに眺め出せばもはやライオン家族の食餌風景を心静かに眺められはしない。

 これが野生というものである。人間ばかりが足から手を独立させ脳を肥大化するに成功した為、これを喪失した。野生の掟からの脱却は想像を逞しくして文化文明を築いたが、野生本能の喪失はいつかとんでもない事態に陥るのではなかろうか。そう勝手に危惧しながらも元に戻る道が用意されていないことだけは自明であった。

 

  ともあれ、現代人は野生を失って華やかな文化に生きている。恐竜時代が去った後、取って代わった人類の時代もやがて次代に譲るのが宿命なれば、今の繁栄のうちに幸福を噛みしめていれば良いのかも知れない。躰に悪そうなものはなるべく喰わぬがいいし、比較して旨くないものは敢えて食べる要もない。生ものがえてして腐敗し躰を壊すものなら加熱すればいいのだ。ゲテモノに手を出す必要などありはすまい。昆虫食もいずれ受け入れねばならぬと声高に叫ばれても、自分の生きてるうちが大丈夫なら、必須になった時に生きている人間が我慢すればいいのである。

 

 やたら無臭剤や抗菌剤を吹き付ける清潔な時代を現代人は築いた。自動洗浄トイレでなければ用を足せぬ人もいるし、家の中に蠅や蚊の一匹ですら存在を許さぬ潔癖症の人もいる。香水なのか制汗剤なのか、はたまた日焼け止めや脱臭スプレーの香りを身に纏い、「生物」である筈の自分の本当の匂いが分からなくなった者の何と多いことか。30代で一旦染めた髪は元々何色であったか分からぬ人も、諸所に整形を施した挙げ句結婚し、生まれた子を見て一体誰の子か不審に思う人もいるのじゃないか。

 

 お洒落で上品な人は食べるものが違う。極端な話、加工した挙げ句に元の素材を判明させられぬご馳走も多いのではないか。焼く、似る、蒸す、茹でるなどの料理法を駆使し、素材を美しいものに変えて摂るのが人間様なのだ。辛うじて生を味わう寿司や野菜、果物もないわけはないが、それとても炙りサーモンの方が旨い。数種類の香辛料を混ぜ合わすだけでいっそう美味しくなる、果物とてもスムージーにした方がお洒落と言ったりする。

 

 他の生き物とは異なる贅沢、清潔、上品さ、優雅さを纏った人類よ、万歳! 今の時代を旺盛に奢り楽しめ。次代は昆虫の世界と言われるから、乗っ取られる前に威儀を正して昆虫食に取り組み、人類の時代を幾分なりとも延命させられれば御の字なのだろう。 

 

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「料理」蒼月光 著

おふくろの味というのがある。

幼い頃から食べ慣れた、自分の家でしか食べられない味。

我が家の場合は、主に御赤飯と小鯵の唐揚げの南蛮漬けだろうか。

私は生まれも育ちも道産子だけれど母は関東出身。

関東にいた時間より北海道で暮らす時間の方がはるかに長くなってしまった母であっても、自然と料理の味付けは関東方面のものが良く出てくる。

 

まず我が家で御赤飯を作る時は小豆を使う。

小豆を水でふやかした後、煮て、煮汁でもち米を染めて炊く。

北海道では小豆ではなく、甘納豆が御赤飯に入っているのが主流だ。しかしながら、私はこの小豆御赤飯しかほぼ食べてこなかったので、逆に甘納豆の入った御赤飯が珍しく感じていた。甘納豆の方が嫌いという訳ではないが、舌に馴染みがないためか、小豆と甘納豆の二種類が選べる時は、今でも小豆を選択するほどだ。

ほんのりと豆の香ばしさを感じながらもっちもちと食べる御赤飯は、ハレの日に必ず作り続けている料理でもある。

 

それから、小鯵の唐揚げの南蛮漬け。骨ごとまるまる食べられるように小鯵をカリッカリになるまで油で揚げ、そこにマリネした玉ねぎや大根や人参をシャバッとかけて食べるもの。

これは私の好物なのだが、なかなか食べられない料理でもある。

何故か。

それはとにかく小鯵が売られていないからだ。
アシがはやいとは云え、生鮮品であっても流通の優れたこの時代、食べ方を知らないから買わない売れないのがその理由なのだろう。本州でホッケが貴重であるように、北海道では馴染みのない種類の魚だとも言える。実際、私も小鯵の食べ方は、この唐揚げ南蛮漬けくらいしか知らない。売られていないから作るにしても作ることができない、勿論食べることもできないなんとも悔しい料理なのである。

数十年前、まだ子供だった私がこの料理を大好きなことを知った母方の叔父が、何かの用事で此方に来た時に、わざわざ発泡スチロールの箱にいれて、大量の小鯵を直接持ってきてくれたことが鮮明に記憶に残っている。
まるで釣りから帰ってきたように、陽気な笑顔でさり気なく届けてくれた様子は、とてもはるばる飛行機でやってきたようには見えなくて、嬉しいと同時に驚いたものだ。

 

食材あっての料理。地場にない料理に惚れてしまうと、片思い感が半端ないのである。

高嶺の花に恋したように、表立ってはいかないけれど、密やかにずっと熱は鎮まらず。

今は移住が流行っているそうだけれど、こういうのも理由の一つなのかなと思う。

 


先般までテレビで放映されていた「きのう何食べた?」というドラマがある。

俳優陣のキャスティングの妙もあり絶賛されて終了し、早くも続編を希望されているドラマだ。御多分にもれず、私も毎週、深夜に放映されるこのドラマを観ては、シロさんとケンジに夢中になった一人である。LGBTの日常を描き、様々な見方が出来る作品でもあるけれど、今回は料理に注目しようと想う。

 

主人公の弁護士として働くシロさんは、家に帰ると日々の料理を作る。

家族であるケンジと自分の為、ひと月の食費や摂取カロリーにかなり気を配って作るのだが、副菜が好きという困った凝り性でもあり、頭を悩ませながら作る。

生きる為、それもどんなに願っても子を成せない二人が少しでも健康的に長生きが出来るように想いを込めて。

 

このシーンを観た時、自分が子供の頃、母は当たり前のように食事を用意してくれていたのを思い出した。至らない、ただの子供だった私は、これは一般的な家庭の光景で当たり前のことだとすら思っていた。

だが、本当は違う。

自分が大人になりキッチンに立つことが多くなってきて、ようやく初めてわかることがある。思い返せば母は自分が体調悪かろうが、親子喧嘩をしてようが関係なく、最終的には絶対、なんらかの湯気の立つ料理を作ってくれていた、と。

 

料理は使う皿の大きさや枚数に関わらず、少なからずの思考力や体力等を使うもの。しかも、毎日、来る日も来る日も。
これが自分だけなら、適当に済ますのだろうけれど、一緒に食べる人がいるならそうもいかない。大抵の家庭で出てくる「好き嫌いは駄目バランスよく食べなさい」…そうお小言を言う為には、まずバランス良い料理が食卓に並んでいる前提が必要だ。

 

シロさんも一食でなるべく「あまからすっぱい」を網羅して提供すること念頭に、メニューを毎日創り出している。

このポイントは副食にある。

御飯一食、メインはすぐ決まるものの、それに伴う副食というものが本当に難しい。

例えばここに、炊き立て御飯とマグロのお刺身がある。

その他に何を揃えるか。野菜が欲しいからお浸しか、それともお味噌汁か。子ども達の好きな卵焼きでも焼こうか。1日頑張ったご褒美に、貰ったカニ缶で何か作ろうか。

料理人の腕の見せ所でもあるが、一番の悩みどころでもある。

 

お腹の虫が騒ぎ出すような温かい薫り、色とりどりの料理がお皿に乗って。

「今日はあれがあってね」「明日はこんなことがあるみたい」美味しい料理に箸を伸ばしながら話したり思ったりすることは大抵が愉しいこと。社会的にも重要な商談には美味しい料理が必須という。料理は人の心理にも作用するものなのだ。

 

孤食が社会問題になり、子ども食堂というものが徐々に広がりをみせている。

食事は、栄養を補給するのが第一の目的だけれど、同時に心の栄養補給できるものでもある。御飯一粒ですら食卓に並ぶまで、どれだけのエネルギーが必要だったかを伝えることができたら、きっと心がこもった挨拶ができるはず。

「いただきます」

「ごちそうさま」

それがどれだけの波紋を呼べるのか、分からないけれど。あまりの理不尽さに胸が痛むニュースが一つなくなるくらいの効果はあるんじゃないかと願いを込めて想っている。

 

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鮭と卵とキュウリのおすし

 

「料理」御理伊武 著

 居酒屋の席に落ち着き、ビールや飲み物を頼んで、飲み物がくるまでメニューを広げて眺める。唐揚げに、枝豆、後は鳥串と…。卵焼きの文字が目に入る。どのお店でも500円程度でボリュームのある卵焼きを私は必ずと言って良いほど注文する。

 卵焼きが大好きという訳ではない。誰かが焼いた卵焼きを食べてみたいと思うのだ。お店だったら調味料の加減が決められていて受け継がれているお店の味。お花見や遠足などで、もし、どこかの家庭の卵焼きを味わう機会があれば是非ともいただきたい。その人の好みの味とか固さや焼き加減で人となりが想像できるような気がする。卵焼きには個性とその人の人生が出るような気がする。だから、私は卵焼きのメニューがあれば、食べてみたくて注文する。

 私の母の作る卵焼きは、甘い。甘い卵焼きは実は好きではないのだが、母の卵焼きだけは、家庭の味だと思い安堵しながら食べる。自分で自分のお弁当用に作る時には砂糖は入れない。油も引かず、長ネギを炒めてから卵二個と混ぜ合わせ、めんつゆと粉の和風だし少々入れて勢いよく織り込んで仕上げる。最後に長方形になればよいという適当さ。お好み焼き風の味にしたくてソースを掛け鰹節を振り入れ、お弁当箱にインする。家族用には、砂糖を入れて甘しょっぱいだし巻きにしたり、砂糖だけの優しい味にしたり、クックパッドのレシピを参考に再現したりする。卵焼きの味が定まってもよい年齢になったが、まだ家庭の味が定着しないのは、私の好きな雑な卵焼きの味を、家族皆が好きではないからだろう。

 

 20代半ばの頃に、居酒屋でアルバイトをしていた。そこは60間近の、元薄野の女王であったママさんとアルバイトの私の二人きり。カウンターとテーブル、座敷を含めて、最大で30席位のこぢんまりとした、それでもたくさんの常連客に支えられているお店だった。

 ママさんのお店は私がアルバイト情報誌を見て応募する時に、助手のアルバイトがいない状況だった。私はその当時、就活も兼ねて黒のスーツにひっつめ髪だったので、薄野の外れではあったけれど、ママさんには面白く映ったのだろうと思う。

 常連客は決まったように卵焼きを注文する。飲み始めも、最後の閉めも卵焼きだ。油をひいて、卵を三個溶く。砂糖は大さじ1、塩は濡れた菜箸を塩の入れ物に刺して付く程度。途中でピザ用チーズを投入。卵もチーズもゆるやかで、お皿に乗っけてもチーズと卵液でゆるやかにぎりぎり形を保つ。

 私は、女王から、あれこれ学んだ。夕食の定食メニューの味噌汁も、味噌をおたまですくい取った後、鍋底でぐりぐりせずに、菜箸で溶くなど。私の料理は、勘が全てだったので、基本的な料理の仕方を一から直された。そのうちに魚の干物を焼いたり、鳥串を刺して焼いたり、22時過ぎには常連客に中華鍋を振るい、香ばしい、締めのラーメンを作ったりした。

 ママさんは、常連客の対応に忙しく、21時を過ぎれば、ママの独擅場だった。私はママさんによると、二十歳そこそこの、飲めない女の子という設定だった。私は常に凍ったジョッキグラスを冷凍庫から取り出して、職人のようにビールを注いで運び、お酒と氷が足りなくなれば近くのコンビニに走って買い出しに行くといった使いっ走り。その間にも私ができる料理をカウンターの常連客と話をしながら作り、常に忙しく動いていた。

 ママさんと20代半ばの私の二人という店だったが、薄野の外れにも関わらず、大企業の支店があったり、北海道の企業の本社があり、そこで働く一部の人たちが、同僚と一時発散をしたり心を休ませる場所だった。

 飲めない設定の私と、常連客に付きっきりのママさんでは、繁盛店の対応が出来ず、他に一人、料理ができて飲むことができる大人の女性(年は私とそれほど変わらないが)を新たに雇った。ママさんは、その人がお店に慣れた頃、刺身の盛り合わせの作り方よりも先に、常連が常に注文する卵焼きの焼き方を伝授するのだ。

 私には卵焼きは作れないと、ずっと言い続けていた。そんなママさんだから、卵焼きを焼ける人は数ヶ月で常に変わっていたのだけれど。

 私はママさんの卵焼きをずっと見続けていたから、教わらなくても見様見真似で作ることが出来る。でも、25歳も過ぎた私に教えてくれなかったのはなぜなのか。

 ここで、ママさんと再会して当時のエピソードを交えて、卵焼きの作り方を伝授してくれたら、最高の物語になるだろう。しかし、私は未だに卵焼きの味が定まらないまま、自分の味を探し続ける。

 遠く離れては居ない。私がその場所へ行くことはないように。

 市電で、そこから降りて数分という近くを通り過ぎる。

 想像の中では、お店の看板も紺色の暖簾もそのままで。

 そんな私の思いは、気にもしていない女性がいつまでも、その場所にいるような気がする。

 いつか、行きたいと思いつつも、自分の年齢が、もう女の子ではないことに、どうしてよいか分からずに、電車の窓から、私は、すでに変わりつつある景色を眺める。

 

 

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「水遊び」高柳 龍 著

水遊び今昔                                         

 

 中島公園「鴨々川」、大通公園の噴水(2基あったうちの一つ、今もあるか?)、「さとらんど」の人工巨大水辺(名称知らず)等々、札幌界隈在住のご家庭では子どもが小さい頃何度も訪れた場所ではないだろうか。少し長ずれば手稲の巨大プール施設に連れて行ったろうしし、偶の日曜には足を延ばして蘭島の海水浴場にまで行ったろう。まだ子どもは泳げないし自分もまた同じであるから底まで透いて見える中を泳ぐ小魚を追っていればよかったのだ。あっという間に時間は飛んで行って、子も親も満ち足りたのだ。要は「ちゃぷちゃぷ」ができれば楽しく嬉しいのである。

 

 またそれが目的なれば何も遠くへ行く要も無い。庭にドラム型のビニールプールを設置するので事足りたのだ。部屋で水着に替え一目散に外へ飛び出す。ビニールボールやアヒルの玩具があれば声は裏返ろう。水鉄砲や「ぴょこぴょこ蛙」があろうものなら気も狂わんばかりの奇声を上げよう。 ところで、親も水着になってプールに入って来いと要求された覚えがない、若い父親はふと不思議に思ったのである。ひょっとして与えられたものだけで子ども達には充分だった所為ではないか。それらだけでも遊び足らない。帰るよ、もう止めにしようと声を掛ければ「もっとー」と不満を漏らすが、散々駄々を捏ねて手古摺らせても、暫くすればクタッと寝てしまうのだから。

 

  自分たちの「水遊び」は現代では叱られる対象のものだった。滝川にいた頃、小学校に上がれば親の目の届かぬ遊び場に出かけた。森であったり神社や寺の境内であったり大きな公園だったりした。三輪車や補助輪付きの自転車でちょっと年長の子らの中に入って行ったのである。

 

 「滝壺」と名付けられたのが「水遊び」の場所だった。線路と並行する1m幅の小川に、神社の丘から細流(せせらぎ)が線路を潜って注ぎ込んでいた。傾斜が強くなり小さな飛沫が上がるところがあるので「滝壺」と称していた。服を濡らすと叱られるから下着1枚になってチベタイ、チュベタイなんて言って細流に入る。美しく透明な流れに踝まで浸かり、掌で清水を掬っては相手に浴びせる。小3が年かさで1、2年の合わせて5、6人の知った顔で毎日のように遊ぶ。いつか風呂と化して誰かがもう上がるかと言う。すると皆が次々に細流沿いの草地に上がり腰を下ろす、あるいは寝そべる。濡れたのを乾かすのだ。陽が眩しくて目が開けられない。1年坊主はパンツまで濡れていた。

 また誰かが言う。また入るとしよう。ぞろぞろ続いて、今度は細流から滝壺に落ちる。落ちなくてもいいのだがなぜか皆落ちる。ずぶ濡れだ。小川の方は少しく深い。下が泥なので足でかき回せば途端に足は見えなくなる。ここには鮒がいて泥鰌も泳ぐ。アメリカザリガニもいるし、時には鯰が足首を掠める。カラス貝もあればゲンゴロウやヤゴもいた。1年生は2年に羽交い絞めされるが、いじめではなく保護の為である。自ずとできたルールだ。同方向から足を磨るように進み獲物を追い詰めるか、上下流から挟んで捕まえるか。尤も捕えても魚籠やそれに代わる瓶を用意してもいないから、一体なぜそんなに真剣だったろう。笹舟で競争もしたし、鯰を皆で追い込み狩猟本能を掻き立てたりもした。時折、また温まろうと誰かが叫ぶと、また揃って斜度のある草地にシシャモのように寝転ぶ。草の下の土からジワーッと熱が伝わる。瞼の裏側を赤く透かして陽が熱い。偶には線路の熱したレールに帽子を置きその上から耳を当てる。熱さと一緒に振動音がすれば列車が来るのだ。遠くに列車を認めると誰かが川に入るぞと叫ぶ。入らず草に伏せる者もいる。ともかく運転手から姿を隠したつもりでいるのだ。

 

 毎日が楽しかった。遊び道具など無くてもいろんな遊びを工夫した。滝壺でなくとも森や林で基地を作って遊んだ。弓矢やパチンコも自分で拵えた。10名も集まれば、鬼ごっこやかくれんぼをしているうちに夕刻になった。かくれんぼは場所を選ばない、鬼次第で隠れる範囲は拡大する。

 

 ここまで書いて男同士の遊びであったことに気付く。ジェンダージェンダーでは語れない。偶には女の子も混じえることもあったが、やはり稀だったろう。

 球技や水泳などはまだ無理な頃の遊びである。「太陽の子」とか「海の子」などという言葉が輝いていた。子どもは外で遊べと言われた時代だった。もやしっ子は否定された。肘や膝小僧に赤チンキの緑光していた時代である。そんな遊びは今の子供たちに魅力が無いだろうか。

 

 

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「水遊び」御理伊武 著

私が4、5歳の頃にビニールプールで遊んでいる写真がある。

平屋の公務員官舎の庭の片隅。車がなかった我が家は、雑草の生えた石と土の混じる駐車場をそのまま子供の遊び場にしていた。自家用車のある他の家は、青いブルーシートを張った車庫を作ったりしていた。それも雨の日にはおままごとの家になり楽しかったのだが。

ちゃんとピンク色の水着を着て、ビニールプールに収まる私は、写真を撮っている母か父に向けて目を細めて笑顔でいる。貴重なフィルムの何枚にも渡りビニールプールの光景は写っているが、もう私の中にはそのプールも水着の記憶もない。

無理矢理記憶を探っても冷たくぬるくなっていく水の感触と、ぼんやりと浮かぶビニールプールの底の柄くらいしかない。ただ、ビニールプールは、小さい子供には楽しいものなのだということが分かった。細かいことは覚えていなくても、それだけで収穫だと思う。

だから、自分の子供にもビニールプールで水遊びをさせたかった。

 

若い夫婦だった私たちは新興住宅街の一角にある中古マンションを購入した。建物の構造上、ベランダが広いのが、売り文句の一つだった。友人を招いてビアガーデンや、プランターを何個か置いて家庭菜園を満喫できそうな広さだ。

若い私は、まだ1歳の子供を抱きながら、そのうち子供とビニールプールで夏は遊べるなあと、考えていたのだ。冬には雪が積もるため、排水もしっかりしている。小さなビニールプールを置く想像はたやすく、夏間近にイオンのおもちゃ売り場でビニールプールを見かけては、今日買おうか買わないか悩んでいた。

 

そんな中、私は風邪っぽくなり、まず、市販の強めの風邪薬を飲んだ。早く治したかったし、風邪薬は早めのほうがよく効くという経験があった。食欲もなかったので、滋養強壮だと思い、栄養ドリンクを飲んだ。薬局で格安で売っていたので買っておいたものだ。その後、なんだか熱が上がってきているような気がして、解熱鎮痛剤を飲んだ。あまり間を置かずそれらを飲んだような気がする。

その後、眠りについた。

マンションは、10階以上の高層階で、ベランダにつながるドアがある。

 

夢の中で、私はそこから飛ぶような想像をした。

 

ふわりと、ベランダの柵を乗り越えて降りるのだ。怖いとかそんな思いはない。飛びたいから飛ぶ、そんな感じだった。

 

明け方に目が覚めた。

薄い水色の空気の中、体が、ベランダのガラス張りのドアに向かって引き寄せられているような気がした。頭の後ろからどんどん引っ張られている感じだ。追い風が体を押して飛ばされそうな感覚。意識が、飛ぶのは気分がいいよと。なにも怖くないよと引っ張られていく。

でも、私は十分恐ろしいのだ。横向きで寝ている私の背中側には使っていないベビーベットがそのまま置かれており、そこに紐でもくくりつけておかないと引っ張られていきそうだった。

右側で寝ている子供の体をぎゅっ抱きしめ、重たい敷き布団を掴む。ベビーベットに体を括り付けたくても手足が思うように動かない。もし、完全に起き上がったら、足がベランダに勝手に向かいそうだった。子供と布団を掴む手に力をこめる。それにこんなに恐ろしいのに頭の中は重たく眠たいのだ。

意識がなくなったら、無意識のまま、飛び降りているかもしれない。次、目が覚めた時に生きているといいなと思いつつ、視界がかすんで瞼は閉じる。生きているとしたら、この2歳に満たない子供の生命力と敷き布団のおかげと思いつつ。

  

それから私は、ベランダはただあるものになった

ビニールプールは結局買わなかった。その楽しさを実感できず、子供達は大人になる。もし、子供が大人になって、奥さんに「ビニールプール買ってもいい?」と可愛く聞か

れたら、「なんで、それって楽しいの?」 と返事をするようなダメ旦那になるだろう。

イオンでビニールプールを見かけて目をキラキラさせる子供に、うちはマンションだから無理と言う。子供時代のビニールプールの経験が今後の人生においてどれほど影響を及ぼすかは定かではないが。

その代わり、近場の公園の水場やプールに夏は積極的に出かける。

水遊びの水鉄砲やバケツ、水着、タオル、着替え、敷物、水筒、お菓子にお弁当、小さい頃にはおむつや抱っこ紐など、荷物だけでも大変な量だ。そして水に濡れ砂まみれになり帰宅する。

夏は、あちこちで水遊びをすることが定着しつつある子供達は、その記憶を持ち大人になるのだろう。どこまで覚えているのかは分からないが。

ちょっと、私が写真を撮るときに嫌な顔をするようになった、かつて1歳数ヶ月だった長男にカメラを向ける。

楽しかった思い出が、少しでも多く心に残るように。

 

私は疲れ果てながらも、家につくと、荷物をほどき、ゴミを捨て、汚れた服を洗い洗濯機に入れ、水筒を洗い乾かして、夕ご飯の支度を始める。

ベランダ越しに夕日が差し込む。

明日も晴れるだろうと思いながら。

ソファーで、うとうととし始めた子供に声をかける。

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