「雨」高柳 龍 著
「雨に濡れるこころ」
小降りの雨が陽射しに映える。さすがに濡れるだろうからと愛用の大傘を先程から差している。
昨夜はゼミの仲間と浴びるほど飲んだ。元々酒精に弱く途中で正気は吹っ飛んだ。依然、酔いが頭に渦巻いている。日曜日だが偶には独りのんびりと好きな本を眺めて過ごすのもいいかと考えた。県立図書館までは40分ほど歩けばいい。財布を腰ポケットに入れ、傘だけを手にアパートを出たのだ。
雨が次第に大粒となり遠景を霞ませた。おふくろの送ってくれた大傘は雨粒を弾く音が小気味よい。住宅街の舗装路にも水溜まりが出来て跨いだり飛び越えたりした。
戻ろうかとも考えた。だが帰っても何にもする気は起こるまい。勉強は愚か、友人を訪ねて遊ぶことすら魅力を感じない。疲れているのかと自問してみた。いいやと気怠く自答した。
驟雨と言うのか。家を出た時は眩しいほどの陽射しだった。普段は信の無い予報を気にしてやって、注文通りぱらついたのだからにんまりした。が、曇り空の上にはきっと晴れ間があると信じている。
最近、何となく不調だった。萎えている感じを容易に払拭できない。前夜の酔態もその延長でしかなかったと悔いる。前期の試験が終わって気が脱けたと簡単に結論付けるわけには行かぬと思った。
本降りとなった。遠景どころじゃない、近景も雨脚の激しさに白っぽい。
雨音のシャワーを傘で受け止める。ひときわ大きな音を後ろに捉え、振り向いた時には車が迫っていた。チッ、たくさんの水溜まりに覆われた道だが、それでも除けてやらねばならぬことが面白くなかった。右側に水溜まりを超えて退いた。通り過ぎざま窓が開く。何だ? この雨の中で窓を開けるなんて尋常じゃない。思わず睨んだかも知れない。
「乗りませんかぁ」
何なんだ? 意外な近さで若い男が声をかけて来た。思わず傘をそちらに向けたら大水が流れ出し、慌てて後方に上げた。期せずして傘が車との間に空間を築いた。銀鼠のライトバンを徐行させながら相手は顔を覗かせて言った。
「乗りませんかーッ。送りますよぉ」
「送るったって、僕の行き先も知らないのに……」
「この雨ですもの、お気遣い無く。私も日曜で暇ですからぁ」
あまりの胡散臭さに一刻も早く逃れるべきと身を引いた。が、絡みつくズボンの裾を蹴るように足を速めた僕に、車はぴったり寄り添って来るのだ。
「実は…ちょっといい話もあるんですよ。それで……」
来た来た、これだ。こんな誘いに乗って馬鹿を見る人間が実に多いのだ。
雨脚が更に激しくなった。大傘でも下半身は既にずぶ濡れだった。道のりの半分も来ていない、……とても図書館に行くどころじゃないと思った。
そんなことを考えている間も男は親切そうな声を発し続けた。
「とにかく乗って下さいよ。ズブ濡れじゃないですか」
悪人には見えない。日曜というのに紺スーツを着ている。話だけ聞いてやるか、うまく行けばアパ-トまで送って貰えるかも。小狡い考えが頭を過ぎった。
途端、その瞬時の変容をプロは見遁す筈はなかった。
「どうぞ。早く、早く。乗ってくれなくちゃ話もできませんから」
と片手を延ばして器用に後部ドアを開けてくれた。シートが濡れてしまうのに恐縮した。
………………………………………………………………………………………………
短篇の書き出しとして書いてみた。雨は人を閉じ込める。いかな大きな傘であれ、大降りとなれば全てが濡れそぼつ。それを喜べるのは幼い頃だけである。でも必ず叱られた。大人は直ぐにも家に帰りたくなるものだ。ましてや「僕」はこの時、精神的にも曇天や雨天であったのだから、もう最悪である。心が脆くなるのを誰が抑えられよう。後の筋はこうなる予定だ。
「僕」はかくして魔の手に捉えられる。停車したまま後ろに向きを変えて、青山のブティックに勤めていると名告った男は、開口一番「僕」の服サイズを言い当てる。「そう思いながら少し前から見ていたんです。……痩せて背の高い人は腕の長さから言っても吊しではまず合う物はないでしょ」と。図星だった。大きめの傘を送ってくれた母親も服を購入する際はついぼやいてしまうのだった。
「実はセール販売で出張していたんですけど、大きめの物って意外に売れ残りが出るんですよね」
男は心持ち「僕」の方に近づき、釣られて「僕」も腰を前に動かしてしまう。
「ここだけの話です。君のサイズのブレザーがそこに5着あるんですよ。みんな違う柄だし安く買って頂けないかと。月末に残してしまうより、安くしてでもはける方が私には嬉しいんです。○○という英国ブランド、知ってるでしょ。ちょっと段ボール箱を開けて裏地のタグを見てください」
言われる儘に「僕」は確かめる。それらしい刺繍が見て取れた。雨に降り込められた密室のムードは既に公明正大さを失していた。直ちに箱を閉じたのは既に罪意識の共有が成立していたからだろう。「気に入らぬ柄があっても全部で5万円ならどうです? お母さん孝行にもなるんじゃないですか?私も勤務評定でポイントを稼げるし、君を送ってあげてもまだ夕方のデートに間に合うし……、久し振りの日曜なもんですから」
もう「僕」は雁字搦めになっている。話の合間合間に心擽るような話題を男は忘れない、「僕」の故郷を聞き、そこは修学旅行で訪れて感激したことを伝える、それも具体例を挙げて。好みの音楽ジャンルを聞き、歌手名も聞いた上で、自分も好きなこと、この曲あの歌の良さを事細かく論じる。勿論「僕」の言うことに耳を傾け賛同するのも実に巧みだった。
結果、「僕」はアパートに送って貰い、中身を確認する間もなく箱を抱えて雨中に飛び出し外階段を上がる。机奥の仕送り金に腰の財布の数千円を補ってそそくさと車に戻る。心の置けぬ共謀者との意識が、それに相応する土砂降りの雨を背景に、窓から手を振ってエンジンを吹かし去る車に向けて、「僕」は手を振って見送ってしまうのだった。
さて、心時めかせて箱を開ければ、上のブレザー以外は粗末な製品ばかりで、しかも全てがつんつるてん。以来、雨が降ると自分が情けなくなる「僕」である、という構想を得たが、どうだろう、雨をこんなふうに扱うのは。昨日(8月31日)も昼時大雨が短時間降った。その前後がもろ残暑の天気だっただけに吃驚したが、恰度その時、庭作業をしていて数十年ぶりにしこたま濡れた。この世のあらゆるものが辛く当たる、そんな年齢になったのだと熟々思った。
「雨」蒼月 光 著
自分は晴れ女だと思っていた。
学生時代の遠足や学校祭、家族旅行等の想い出は大抵晴れの日と共にあるから。
それは傘やカッパを着た写真が見当たらないことからも明らかだ。
けれどいつからだろう。
非日常を強調するような猛烈な雨と共に思い出が作られるようになってきたのは。
最初は高校時代の友人達(御理伊武含む)と富良野に行った時のこと。
たしか札幌駅からの観光列車に乗って、北の国からのBGM流れる車内ではしゃぎながら、畑の真ん前に期間限定で作られる駅に向かった時のことだ。
見渡す斜面一面に広がるラベンター畑。リラックス効果のある薫りを堪能しながら、青空にふわゆら浮かぶメロンの形をしたバルーンを観たのを確かに覚えている。
それがいつからかどんどん雲が多くなってきて。お気楽にものんびりと他の観光先へと徒歩移動をしている時に、突然やってきた天を裂くような稲光と轟音。
悲鳴を上げる間もなく、土砂降りの雨に降られ、ようやく見つけた民家に飛び込み、タクシーを呼んでもらった鮮烈な記憶。今、千原Jrさんが不定期でやっているタクシーでの旅番組をかなり昔に先取りでやっていたことになる。
あの時の田舎特有の引き戸玄関の民家の方が、優しくて有難く。素早くタクシーを呼んでくれたり、これ以上濡れないようにと玄関先まで入れてくれたり…。突然やってきたビショビショ女子6人がピンポンと同時にタクシーを呼んでくださいって助けるって、事件でも起きたかと驚かれたろうに。
さり気なく去り際に、御理伊武が「お礼代」を靴箱の上に置いていったのをみて、大人のスマートさを感じたことも覚えてる。
次は野外音楽フェスに行った時のこと。
1つ目は某学ランツッパリロックバンドが行った、山梨県の富士急ハイランドでの特設ステージLIVEに行った時。
千歳から羽田まで飛行機で飛び、迷宮のような新宿駅で列車を乗り継ぎ、更に何処か名前も忘れた駅でも乗り換えた。都心から離れ、車窓が山間の風景を醸してきた頃、周りに人がいなかったのを良いことに、列車の中でライブTシャツに着替えたりもしながら。ようやく、富士五湖が見え、山梨県までたどり着いたものの、日程2日間通しての雨模様。
そこにおわします富士山が裾野までスッポリ隠れている始末。高校の修学旅行以来にお会いできると思っていたのに残念だったが、カッパを着て、LIVEに臨むという生涯初の経験、そして、これからもきっとない経験だと胸が躍ったのも確かなことだった。
大好きでたまらなかったベースに合わせて全身を揺らせて。
あの場にいた数万人の観客と一緒にROCKの渦に飲み込まれ。
まだ暑い8月の終わりの盆地地帯でのこと、汗か雨か分からないもので全身を濡らして、2日目も終わった頃にはカッパも破れてた。
でも一緒に行った友達の、何かから解放されたような晴天の笑顔は忘れられない。
2つ目は北海道石狩浜で毎年行われるライジングサン・ロックフェス(RSR)でのこと。このRSRは、丁度天気が崩れる時期に行われるので有名だ。
2年連続で行った時、どちらかの年は、ずっと晴れで。夕焼けをバックにミスチルを、朝焼けをバッグにスカパラの奏でる音楽を聴いていたが、どちらかの年は見事に雨に降られた。
その年は降水量も少量だったからテントで凌いだりして無事だったが、今年(2019)はついに1日目が中止の憂き目にあってしまった。
いかんせん、だだっ広い空地に大きなステージやテントステージや屋台やイベント小屋を2日間の為に設営している野外イベントなだけに、台風崩れのような嵐がきたら避難する場所もなく、傷病人が出た場合の医療施設も近くにはなく。「何かが起きてしまってからでは遅い」という危機管理が、中止という結果になったのだろう。
そんな状況でも、テントを張って一夜を過ごした人たちがいると報道で聞いた。
結局、あの中止になってしまった日の夜は、警報が出ると言われていたのに、嵐なんて何処へやら。思いの外、静かな夜だったと記憶している。
1年楽しみに待っていたことが中止になった、ただ暗く予想だにしなかったはずの、なんとも静かな夜をテントで過ごした人たちは、どんな想い出ができたのだろう。
酔いしれるはずだった音を思い浮かべては、星もみえない闇夜に溶かして。ただひたすらに恋焦がれたひと夜を同志達と共に過ごしたのだろうか。
辺りが水たまりだらけだとしても、履いたスニーカーやジーンズが張り付く不快感を感じた時間で有ったとしても、ある意味での貴重な体験をした人たちを少し羨ましく想う。
雨は自分の世界に閉じ込める幕だ。
聞こえなくてもいい耳鳴りも、雨粒が地を弾く音が掻き消してくれる。
だから、雨の日は集中して、好きなことをしていいと世界が許してくれた日だと、私は個人的に信じている。
音楽や映画等のアートな世界に飛び込んで、どっぷりとトリップして、思うままの時間を手に入れられるのを許された時間。
逆に何もしなくても許される日でもあると、雨の音を聴きながらベッドに沈むのも良い。
自分の輪郭を縁取る雨を感じながら、夢に落ちるのも、また一興。
「雨」御理伊武 著
突然の夕立。
桑園イオンを出た私は呆気に取られる暇もなく駐輪場の自転車へと向かう。軒下から3秒歩いて出てみれば、すぐに、ずぶ濡れになってしまう雨の勢い。しかし、ここまで自転車に乗って来たからには自転車で帰るしかない。
ショッピングセンターを出た人は傘を予め持ってきていたり、昼食を買いにきた近隣の背広姿の人は掛け足で会社のあるビルへ向かったり、近くに住んでいる人は買い物袋をぶら下げてゆったりと歩いてすぐ近くの自宅マンションへ帰っていく。
車で来て帰って行く人を羨ましく思う余裕もないまま、自転車を漕いで家へと向かわなくてはならない。
何もかも、顔も髪も服もずぶ濡れになりながら、ペダルを漕ぐ。今は一秒でも早く帰って特売で買った冷凍食品と、アイスクリームを冷蔵庫へ入れたい。それだけだ。
若い頃は傘にこだわりをもつJKだった。色はピンクでプライベートレーベルやローラアシュレイの花柄の傘が好きだった。傘は必ずデパートで買い、遊びに行った先で忘れてきたら真っ青な顔をして探した。
しかし、今の自分の傘は100均の傘で十分なのである。時々職場の置き傘のコンビニの300円傘を借りて帰ったりもするが、きちんと返却する。雨露を凌げたらそれだけで良いという感じだろうか。別に濡れても平気なのである。ぐちゃぐちゃの髪でも顔でもその後にデートや運命的な出会はもはやないと期待も希望もしていないからか。
私の最近になって買った傘は、イオンで1500円で奮発して買ったジャンプ傘だ。しかしジャンプの押す部分がすぐに壊れた。閉じる部分を押さえていないと勢いよくジャンプして開いてしまうので、閉じたり閉めたりする場所では使い勝手が悪い。だから、閉じるときはゴム紐でぎゅうぎゅうに縛って閉じている。閉じるときは困難だが、開いている時は立派な傘なので大切に使っているのだ。
ところで、雨に打たれながら、自転車を漕いでいると自転車や徒歩ですれ違う人が少ないので、学生時代に合唱部だった私は歌を歌ったりする。案外と口に雨は入らないのだ。マイカーが自転車なので、ステレオもなく、想像上の音源で歌う。タリタリタララー、頭の中は台風が近づいてきたライジングサンのような吹きさらしの草のみの会場。そして風がゴウゴウと行く手を阻む雨の降りしきる暴風具合だ。しかも本日の観客はゼロ。
「それでも、あなたの為に歌います。聞いてください。一曲目は雨。森高千里のあのしっとりとした曲です!」
一人リサイタルを、自宅に着くまで繰り広げる私のレパートリーは幅広い。アイドルっぽく森高を歌った後は、雨の付く歌をひたすら歌い続ける。それが、和洋取り混ぜのアメージングサンだ。八神純子さんの「みずいろの雨」を陶酔しきって歌いきり、レベッカの「真夏の雨」をやたらと息切れした感じで歌い、雨の勢いが弱まってきたら「雨に唄えば」英語が分からないのでとりあえず楽しそうに鼻歌でふんふん歌う。
気になってカラオケのジョイサウンドで「雨」という文字がタイトルに入る曲を調べたら、洋楽なども含めて2719曲あった。それに対して「晴れ」という文字の入る曲は同様の検索方法で281曲であった。その差はおおよそ10倍である。ちなみに、曇りが付くタイトルは35曲であった。
晴れよりも、雨の方が詩として書きやすいのか。
晴れから思い浮かぶ言葉はどうだろう。
「晴れた空、買ったばかりの自転車で、あの人との帰り道の分岐点の坂の途中で待ち合わせをしよう。」
なんて、すごく前向きな、イメージが浮かぶ。
雨だと、非常にアンニュイになって、「雨と私」「雨の港町」「雨に打たれる貴方が好き」なんて、タイトルからまず自由に次々と思い浮かぶ。
私は雨は嫌いではないが、雨が好きと告白されると、一瞬、「えっ」となる。
シャワーの代わりに雨を浴びたいの?
まさか豪雨に打たれたい修行僧的な感じ?
それとも、雨を理由に家でひたすらのんびりしたいインドア派?
そして、私の想像を超えてしまうくらいすごく変わった感じ?
だから、私も雨が好きとは言わないでいる。
大地に水が染みこむ感じが良い。
草木が元気になるような感じがする。ほどほどであれば。
2018年の10月27日、札幌は暴風雨により、土砂災害警報が発令された。
あの、どきっとする携帯の音と共にである。山に近い我が家も雨で地盤が弛んで常に山の形状が崩れれば、一気に流されてしまう可能性があった。避難勧告区域と道路を挟んですぐ側だったので、そのときは街にいて良かったなあと思ったのだ。そのピロピロピロリーンとい音楽が街中で呑気にハローウインパレードをしている最中に携帯所持者の殆どの人から流れた。ピロピロピロリーンの連続である。しかも、一時間以上間隔を置いて、流れ続けた。その雨での大きな被害はなかったのだが、9月6日の北海道胆振東部地震の停電の後だったので、警告の音は有り難いけれど、必要以上に動悸がするので心臓に悪い。
雨の中、避難したらどうなるだろう。
子供の頃、平屋建ての官舎で車を持って居る人はそれぞれ、青いビニールシートで囲った車庫を建てていた。小学生の頃の雨の日の遊び場はそのブルーシートの中で、雨音を聞きながら、その下にピクニックシートを敷いておままごと遊びをした。
当時の道は砂利が殆どだったので、その場で染みこむからか流れてくる水もなく、私たちのビニールハウスの小さなお家で飽きるまで遊んでいられた。それは遊びであって本当にその場所で24時間過ごすとしたら想像を超える苦労があるのだと思うのだ。
当時は、皆、家で遊ぶよりも外で遊びなさいと言われていたから。あまり意識せずに外で遊んでいた。公衆トイレが近くになかったので、トイレも砂利を掘って作っていた。ビニールシートの地面から伝わる冷たさは、どの月までは耐えられるのだろう。真夏の雨は温く頬を濡らす。そして僅かしか間を置かずに指先が冷えて凍えてしまう季節がやってくる。その頃には家で遊んでいるかもしれないが。
冷たい秋雨を同じ手のひらで受け止めるのだろう。
私たちの小さな生活は宇宙からみれば塵よりも小さい。
本日、雨雲はありません。
朝の天気予報を真に受けて。
午後からの公園での遊びの為にポカリスエットと菓子の用意をする。
蟻が巣の準備に忙しい。
急に流れ始める白い雲と灰色の厚い雲。
私は空を見上げる。
そして風がまた吹いてくる。
「映画」高柳 龍 著
「映画古譚」
1961年、滝川の小学校に入学した。テレビが映像の主役ではなかった時代、年に数度、母に連れて行ってもらう映画館は「娯楽の殿堂」だった。
照明が落ちるやブザーが鳴り響く。身構えるのと同時に心拍が始まる。両側の「非常口」の赤灯と大スクリーン以外は闇に包まれ自ずと正面に全神経が向かう。モノトーンのニュースは、なぜか転倒した数字のカウントダウンから始まった。
その日見た「コブラ仮面」の形相の何と恐かったこと。この日ばかりは映画館の暗さを恨みながらもう溜まらず、前にある椅子の背と背の隙間から覗いたり目を瞑ったりした。『月光仮面』シリーズの、タイトルは思い出せぬが最強のヒールだった。幼心に衝撃的に刻まれたこの悪玉を倒したのは、白装束にサングラスの正義の小父さんだったのである。
映画との出会いは、ディズニー映画だったかも知れない。『白雪姫』『シンデレラ』『ピーターパン』『眠れる森の美女』と全て観た。『サウンド・オブ・ミュージック』『メリーポピンズ』『チキチキバンバン』も。邦画のアニメも同様、『西遊記』『白蛇伝』『猿飛佐助』等。己の生きる境遇を遥かに越えて世界が広がった。
映画を趣味の一つと言えた時期は、その後1980年くらいまで続いた。テレビッ子を自認していた小学校高学年から中学生にかけても、映画はやはりテレビとは異なる本格的なものと認識していた。迫力ある画面と音響が収斂する世界に観客は引き込まれ、その絶対時空間のみで移ろう映画は、息継ぐ間もない感動と永続する余韻を醸し、誰に言われるわけもなく鑑賞文に結晶化したものだ。
定番の「007シリーズ」や「寅さんシリーズ」も一本残さず観て来たし、高校からは古い映画にまで食指を伸ばし、函館の「名画座」だったかに何度も足を運んだし、大学時代も東京のそれらしい映画館に出かけたものだ。チャップリンや黒澤明の名作は勿論、『自転車泥棒』『駅馬車』『禁じられた遊び』『風と共に去りぬ』『明日に向って撃て』やチャールトン・ヘストン主演の『ベンハー』『十戒』にも心躍らせた。毛色の違うところでは任侠物にも夢中になり高倉健や鶴田浩二のファンになった。
妻になる人が映画館の暗さや匂いを好まず(昔はなぜか煙草の匂いがしたり湿っぽくもあった為)、止む無く暫し遠のいたものの、子供が幼稚園に入った頃から付き合いで観に行くようになった。「ドラえもんシリーズ」や「ドラゴンボール」、宮崎駿の作品などで大きな感動を得た。「スラム・ダンク」では終了後、涙が止まらず照明が点いても顔を覆って子供たちを待たせたこともある。
映画における感動、それに匹敵するのは総合芸術と言われる演劇だろうか。芸術・芸能・文学はスポーツと共に人間にとって必須な文化ジャンルである。よほど絞らねば幾ら紙数があっても足りぬだろうから、最後に、自分史においてこれぞと思う2本を取り上げ語らせて頂く。当然のように多感であり自己形成の期だった高校生の時に観たものになった。
『影の車』、これはロードショーで独りで観に行った(1970年)。松本清張原作。好きな俳優の加藤剛が妻子ある誠実で平凡なサラリーマンを演ずる。男は通勤バスで6歳の男の子を持つシングルマザー(演者、岩下志麻)と出会う。二人は中学の同級生だった。直ぐに打ち解け、日頃妻とのずれを強く感じていた男は惹かれて通い始める。二人の愛が燃えるにつれ女の息子が懐かぬばかりか、そのうち殺意を抱いているのではとの恐怖を抱き始める。次々と不可解で恐ろしい出来事が起こる。也夕の「幽霊の正体見たり枯れ尾」ではないが、子供の一挙一動が怖くなる。終盤、その子が手に鉈を持っていたのを見て、恐怖のあまり飛び掛かって首を締めてしまう。一命は取り留めたが、検挙された男はその子に殺意があったと縷々訴える。が、刑事は相手にしない。追い込まれた男はついに自らが幼児の時母親の愛人を殺害したことを告白してしまうのだった。人間の心の怖さを思い知った作品だった。『チャイルド・プレイ』など問題にならぬほど怖かった。
『ポセイドン・アドベンチャー』、これもロードショーで(1969年)。米国から希臘に向かう豪華客船ポセイドン号が大津波で転覆する。大勢の客が亡くなり未だ生きている者も孰れは沈没して死ぬとの悲惨な中で、生き残った者達が頼れる者を認めてはその指示によって危険の続く船内を各々移動する。幸運にも残った集団のリーダーは牧師だった。彼は船底に昇る道を提言し、僅かとなった生存者を引き連れ困難に立ち向かって行くが、その経過のうちにも何人も死んでいく。最後に至ってもまた絶望に陥った時、牧師は叫んだ。かくも生きんと努力して来た人間をなぜ神は救わぬのか、と。そうして仲間を救う為に命を捧げ死んで行った。努力の虚しさ・美しさと運命について考えさせられた。
尚、『風とともに去りぬ』は女子の多い文芸部であることもあって、旭川でも札幌でも一緒に行って感想文を皆で書いた思い出がある。
「映画」御理伊武 著
人生初の映画はドラえもんだ。
「のび太の魔界大冒険」かつて札幌市中央区2条西5丁目にあった、東映に家族でドラえもんを見に向かった。日曜日で満員御礼、立ち見大歓迎。ラッシュ時のような人の混雑の中、通路にも人がいっぱいで、ぎゅうぎゅう詰め。
私達家族は他の人もしていたのと同じように通路の階段に新聞紙を敷いて座り、映画を見た。映画の内容は覚えていない。ただ、小さな子供が立っているのに平然と座る大人が大勢いること、立ち見でも席に座っていても同じ金額だということ。そして人の影で画面がろくに見られないこの状況に腹が立ち、通路の端に光るオレンジの足下を照らす明かりと、赤い通路の階段、人々が落として散らかったままのポップコーンの白い残骸を見つめていた。
当時は入れ替え制ではなく、上映中に入場することができた。だから、途中から終わりまで見て、また、最初から途中まで見て、その場面が終わったら出る。でも最後までまた見ても良い。途中で出るのもありなので、途中から映画館へ入ったときは、退席する人を待って席に座った。今は途中から映画館をみるなんて、想像できないと思う。入れ替えではないから、チケットを買えば、一日中、映画を見続けていられた。そんな文化人のような経験をしたかったのだけれど、大人になる前に、総入れ替え制に変わってしまったのは残念だ。
小学校3年生の時に、担任の先生が放課後に映画を見に行く機会をつくってくれて、クラスの数人と先生とで見に行った。その場所は今でも狸小路にある東宝プラザだ。今は名称が変わり、札幌プラザ2・5となっている。
その時に見たのは「ケニー」という腰から下の身体がない障害を持った実在の少年が出演している自身の身の回りについて描いた、ほぼノンフィクションの映画だ。子供ながらにその姿に衝撃を受けたのだが、身体の不自由さを生まれ持った本人は気にせずに、移動手段であるスケートボードをぐんぐん勢いよく走らせ巧みに操る。その姿は、同年代の若者以上で格好が良かった。
ストーリーは思い出せないが、今でもケニー少年の両手を自由に動かして、活発に動く姿を覚えている。若い少年がやたらと走るように彼も思いのままに、両手で自由自在に不自由なんて言葉すら存在にしないように生きているのだ。
家庭のある若い女性の先生がどうして、放課後にわざわざ生徒を引率してくれたのか、分からない。竹製の1メートル定規を持って背中やおしりをたたくのが体罰ではなく、通常の躾だった頃だ。夕方から集まって夜に帰ることは、小学生には大冒険だった。クラスのどの人と行ったのかは覚えていないが、2階から降りる急な階段を自分も後ろの人にも気をつけながら振り向き見た光景だけは覚えているのだ。
中学生、高校生の時には友達とスガイディノスへ映画を見に行った。どんなに感動する話でも、涙は出ず、面白かったねーと言って、下のゲームセンターでプリクラを撮った。
大学時代は、映画好きの集まるサークルに入り、皆で夕張国際映画祭へ行き、夜通し映画を映している会場を観て回り、閉校となった校舎を利用した宿泊所で雑魚寝をした。
映画を観る日は、映画がメインになってしまい、他は全て映画を観るためのオマケに思えてしまう。二時間腰掛けて、スクリーンに集中する。身体を動かさずにいたから、ぼんやりを手のひらがむくんでいる感覚を感じながら、椅子に沈み込んでいた身体を起こし、ゆっくり立ち上がる。夜までは時間があるから、時間をもてあまして、ロッテリアでシェークを飲んだり、雑貨屋をぷらぷらと見て回ったのだと思うが、頭の中が映画の内容で占領されていて、何をしていたのか思い出せない。
日常から離れた特別な場所が映画館だ。
そこで観るのは起きていても観ることができる夢のようなものか。
かつて、ドラえもんの映画を観に行きたかった私のように、私は子供のために長期の休みの度に映画を見に行く手数を整える。
今はeチケットという前売り券をコンビニで買い、ネットから行きたい会場と日付と時間を選び、座席を指定する。一度決定してしまえば、取り消しは出来ないのだが、行って満員で入ることができるなんてことはなく、ゆったりと映画館へ行って、事前に決めた席に座ることができる。
そして、前売りで少しだけ安く入った分もあり、ついつい、バケツみたいな大きな容器に入ったポップコーンを買ってしまう。スーパーで買うよりも数倍高いし、食べるとお昼ご飯や夕食を食べる前にお腹がいっぱいになってしまうと思うのだが、ついつい甘いキャラメルの香りに誘われて、今日だけは特別だよと、半分は自分に言い訳をしながら買ってしまうのだ。
事前に予約する席は、前が通路になった中段真ん中の席がベストだ。
トイレにすぐに行けるし、前に人がいないので視界が開けているのがいい。
狭くて、前が見えなかった子供時代の私とは全く違う状況で映画を観ている子供達は、かつての子供時代に観た映画をどのように振り返るのだろう。映画の内容よりも、ポップコーンを大量に食べた思い出だとしたらため息が出る。
すっかり、歳のせいか涙もろくなった私は、ドラえもんのオープニングの歌の時点で泣けてしまう。そして人の影で、前が塞がれた状況でも、同じようにドラえもんの映像を目で追っていたことを思い出す。
ポップコーンのガサガサボリボリという音を聞きながら。
私は、キャラクターの描かれたハンドタオルでこっそりと一人涙を拭う。
「映画」蒼月 光 著
学生時代、履修科目でフランス語を学ぼうと選択した。
義務教育から散々教え込まれてもしっくりこない英語への反発か、見知らぬ言語への単なる興味だったか、今となっては選択した理由はトンと忘れてしまったが。
担当教授は肩までの長さの真っ黒い髪をソバージュにして、眼鏡にキラキラ煌めくグラスチェーンを付けた、今にも「ザマス」という語尾を使いそうな女性だった。純日本人でありながら、フランスという国の気質が滲み出ているような第一印象を覚えている。
大学はカトリック系だったため、穏やかなシスターが教壇に立つのことも日常だったが、その中で、華奢な体に似合わず、ビジバシと体育会系な授業を進める熱血的な彼女は異質とも言えた。
「もっと学ぶ意欲をもちなさい」「何故こんなことも分からないの、もっと考える!」義務教育をとうに過ぎた20歳前後の女生徒達に注ぎ込む情熱の嵐。そもそも私同様、興味本位で、初めて触れた言語でもある人がほとんどであろう中、その勢いにのけ反るか、うつ伏せになるかの生徒が多かった。
それでも、毎回数分間有った、日本とフランスの文化の違いを雑談として聞かせてくれる話は興味深く面白いもので、その時ばかりは皆、前のめりになった。教授は、雑談は好きね、と皮肉を言いながらも悪い顔はせず、色々な話を分かりやすく教えてくれた。内容は残念ながら、授業の内容と共に、殆ど忘却の彼方に飛んで行ってしまったが、フランス女性のおしゃれな生き方は学ぶべきであると、何度も繰り返し聞いた事だけは覚えている。
そんな中、「今日はフランスの古典映画を見ます」とDVDを取り出して、小さなスクリーンに映し、授業まるまる上映会となったことがあった。
字幕があったがサイレント映画ではない、モノクロの古い映画だった。
お金持ち風のお嬢さんが、戦争から帰ってくる婚約者を待つ間に起こる騒動…のようなストーリーだったと思う。残念ながら授業時間内に終わることなく、途中で切り上げとなってしまったが、割と面白く観ていたと記憶している。
当時、流行りの映画というとハリウッドのアクション映画が主流だった。
正義の名の元、ドガーンバカーンと爆発させては傷だらけの主人公とヒロインがハグして、スタッフロールが流れる映画ばかりが上映されていた。
SFXやアクションの迫力による面白さは認めるが、さすがに食傷気味になっていた私は、気になる映画上映が有れば、地元にある映画館シアターキノに行って、あまり大々的に上映していない映画を観る程度には映画が好きだった。
設立当時のシアターキノは日本一小さな映画館として有名(現在は移転して少し規模が広がっている)な映画好きの人達の匂いが漂う、小さくとも立派な映画館だ。移転前にも2.3度行った事があるが、飛行機の座席に似て座席の傾斜もない昔ながらの「映画館」を体現したような場所だった。
踏めば木の軋む音がなるような古びた校舎の片隅の教室で観るのも雰囲気があって良かったが、授業でフランス映画を鑑賞した時にはこのシアターキノのようなコジンマリとした映画館で観てみたいと思った。
映画好きしか来ないから、電源を切り忘れた携帯電話の着信音も、ガサガサとお菓子を漁る音も、小さいと思っているだけの妖怪小声モドキも何もない、自分の家で観ている延長線上のようなこの映画館で、ドップリと浸かりながら観てみたい、と。
モノクロ映画当時のフランスの通俗がどういうものか不勉強ながらも、ヒロインが着ているワンピースより豪華でドレスより少し軽装な洋服、次々と現れる登場人物達の洒脱のある会話、セリフに合わせて響く靴の足音が創り上げていく日常。フランス映画といえば、リュックベッソン監督くらいしか思いつかない不勉強な私には、御伽噺を観ているのに似て新鮮な驚きが有った。
「年々、日本の女の子たちの品が下がってきているように感じられるわ、品を大事になさい」いつも凛々しくスーツを着こなしていたソバージュ教授は、カツカツと教壇の幅一杯にヒールを鳴らして言っていた。授業を重ねる度、まだいもしない姑の幻影をみているような気になったのは私だけではなかったはずだ。
確かに、あの映画に出てきた女性たちがフランスでの一般的な女性の振る舞いをしていたのならその通りであろう。けれど、邦画を観る限り、そうだと言い切れるのだろうかと疑問も浮かんだものだった。
西洋の女性がワンピース以上のボリュームのあるスカートを普段着にしていた頃、日本での普段着は着物だった。時代劇物の邦画を観ると、あの時代の女性達は指の自由がない足袋と草履や雪駄で、歩幅の稼げない着物の裾をさばきながら静々と歩く。どこかに座るにしても帯を気にしながら楚々と腰掛け、物を取るにも袂の袖も乱れないように最小限の手さばきを要求される。
ただし、それは、お城のお姫様や大店のお嬢様役の身のこなし方だ。
城下町のよくあるお茶屋の小町ちゃんになると動きやすさ重視で働きやすい着物の着付け方をしているようにみえる。あくまで映像世界でのフィクションが含まれているとはいえ、実際、そこまで離れた表現でもないと思う。
あの時、先生は、何処に居た女の子達の何を観て「品が下がってきている」と盛大なため息をついたのだろう。いつの時代にも繰り返される言葉は有るのかなと、国文科の生徒として気付かされた授業でもあった。
「夏服」高柳 龍 著
歓喜雀躍の半ズボン
服のことなど母親に任せておけばよい、細かいことに拘らぬが男なのだと思っていた世代は、昭和30年代前半生まれくらいまでであったか。とは言え、自分の好まぬ物を着せられては溜まったものじゃなく、断固、拒絶することもあった。だが、男色、女色という言葉があった時代にも、女親という人種にはどういう訳か、一度は赤く可愛い服を着せたがる御仁がいた。
私の場合は小四の時だったかにその襲来を受け、涙を流してまで拒んだものだった。けれども時代が変われば男も女色の物を着用するようになり、男子校入学を機に親元を離れ寮生活を始めた際、毎月送られてくる荷の中に青、黄、赤の三色同じ柄のVネックセーターが入っていた。さすがに最初は青色を選び、次いで黄色を着て、暫くの間を置いてから些か勇気を振るって初めての赤色を着て登校した時は素知らぬ態の底に面はゆさを潜めていた。それでも、友人から「似合ってるじゃん」などと言われれば嬉しくなったのだから所詮そんな程度だったのだが、「そのセーター、同じのが三色あるんだね」との某の言、また別の輩の次の歌が聞こえては心に吹き上がった赤面が表にも出ちまったかも知れぬ。
♪~赤・青・黄色の衣装を着けた天道虫が踊り出す サンバに合わせて踊り出す~♪
グッと堪えて何気ないふうを装っても、その後は間違っても連続して着ることは無かったし、赤色のは二度と着なかった。
長男坊だったことも手伝って、自分の好む物を着せてくれる母親に安心して任せていただけに、逆風の思い出は鮮やかに記憶されているのだろう。
そういう意味で、小5から高1くらいまでは着る物について何度か抵抗したことがある。昭和40年代前半に相当する(如何にしても大昔の話になりぬ。許可頂かざれば老頭児は先に進むることかなはず。我も得意になりて認め居らず、忝なし)。
それは「股引」なる代物のことに外ならず。……おっと古語の魔力に嵌ってしまった、失敬(「失敬」など今日聞くことがあるだろうか)。冬服の装いはセーターに長ズボン、夏になればシャツに半ズボンが定番だった。
その長ズボンの下には股引を穿くよう強要されたのだ。それが厚い物なれば当然ソックスまで厚手のものとなる。それが何が何でも嫌だった。脚を股引で固めその上からズボンで更に巻き締めると言ったら分かって頂けようか。足枷を嵌められ自由を奪われた不愉快さを覚えたのである。タイツなどという繊細なものに取って代わったのはいつ頃だったろう。
ともかく中学からは断固拒んだ。野暮ったさそのものに思えた。いかした男(「いかれた」ではない)のすることじゃないと思った。下着の上に直に長ズボンを穿いたのである。母親は穿かねば大きくなってリウマチになるよと脅した(カタカナ語の傷病名には妙な怖さがあったものだ。風邪よりインフルエンザ、物貰いよりはトラコーマ、腫れ物よりはジンマシンの方が。ジンマシンが蕁麻疹であるのを知ったのは高校に入ってからだった)。「お父さんは夏だってズボンの下にすててこを履いてるのよ」と根拠のあるような無いようなことを言って追い打ちを掛けた。厳寒期であれ吹き荒ぶ寒風にズボンをはためかせて堪えた。これぞ男子という気概だったのだろう。
親の強制に従い股引を穿いていた小5、6の頃は、半ズボンの穿ける日をどんなに待ち望んだものか。当時のそれは短ければ短いほど都会的で格好良いとされた。今の七分もあるような物は田舎臭く思えた。東京からの転校生は下のブリーフが見えそうなほど短い物を穿いていて(「鉄人28号」の正太郎少年のようにイカしていた)、母に2センチほど裾上げしてと強請ったこともあった。猿股なんぞ履いていたら下着丸出しの恥ずかしい出で立ちとなるのだから、誰がいち早く半ズボンに切り替えるか、口には出さぬ男子の競争であった。北国の春は如何せん、肌寒いから半ズボンの下には長靴下を履かねばならない。場合によればその下に股引を穿けと言われる奴もいた。それは敗北である。ならばまだ長ズボンで通す方がいい。微妙な闘いだった訳である。
長靴下を脱ぎ素足で半ズボンとなった日はもう不思議なほど躰が軽かった(勿論、ソックスは履いている。足首までのズックから見えるそれは、眩しく見えたはずだ。小3まではゴムの短靴を履いていたのでもろに素足になるのが夏の徴であった)。まさかスキップまではしなかったろうが、まるで飛び跳ねながら通学したものである。夏服解禁の喜びである。自由、解放に繫がる歓喜であった。